残滓

 私は荷物を詰める手を止めて、ふと転がり出てきたアルバムを手に取った。処分しようかと思ったが、何故か思いとどまった。引越屋のロゴが笑うダンボールの間に座り込んで、分厚いそれを眺める。石油ストーブが甲高く燃料切れを訴えてきたが無視した。
 小学校の卒業アルバムだ。表紙には拙い字で私のクラスと出席番号、名前が書いてあり、下手な自画像が幅を利かせている。動かすたびに埃が飛び、指でなぞれば厚い埃の層が面白いくらいに取れる。
 年月の経過を嫌でも感じさせた。私はこのアルバムを卒業してから一度も開いていない。思い出に浸る感傷を持ち合わせていない――というわけではない。だが、こと小学校時代に関してはあまり思い出したくなかったのである。
 小学生の頃の私は、いわゆるいじめっ子だった。
 クラスメイトのひとりをからかっては笑っている、そんな子どもだった。
 きっかけは何だったのだろう、と首をひねってみても、思い出せない。ただ、私はあの子が気になっていた。それが果たして恋愛感情だったのか嫌悪感だったのか、今の私には分からない。好きだったという明確な記憶もなければ、嫌いだったという確証もまた、持ち得ないからだ。
 当時の私にしてみればまったくの未知の芽生えであった。私は恐ろしかったのかもしれない。自分の知らぬところで育っていく「それ」が。あれは臆病さゆえの攻撃だった。
 初めは些細ないたずらであった。持ち物を隠して、困っている様を陰からこっそり笑うとか、三度に一度は無視をするとか、幼稚極まりない振る舞いを繰り返していた。
 そのうちにそれがクラス中に伝染して、あの子はあっという間に孤立してしまった。きっと意味が分からなかっただろう。標的となったクラスメイトに、落ち度はまったくなかったのだから。あえて言うのであれば、幼い世界に厳然と存在する――それは時に病的であり不健全とも形容される――連帯感や一体感によるものがひとつの原因であった。
 つい先日まで仲良く話していた相手が、急に無視をする。その衝撃と悲しみは当時の私にはもちろん、大人となった私にすら、計り知れない。
 最後の授業が終わるまであの子は空気のように扱われ、放課後になると玩具のように扱われた。そこに身体を殴る蹴るという暴力は一切なかった。けれど、謂れなき中傷や嘲笑の視線が、鋭くあの子を突き刺し続ける。徐々に、私があの子に感じていた未知の感情を忘れ、手段が目的へと切り替わっていった。笑い合うクラスメイトと居るのが、楽しかったのだ。あの子の痛みを踏み台にしているという感情は薄かった。
 見えない傷口はどんどん深くなり、そして広がっていく。血を伴わない一方的な蹂躙は引き際を知らず、エスカレートしていくのだ。痛みを知らない子どもゆえに、私たちはどこまでも残酷になれた。
 幸いにもそのいじめは学年には広がらなかった。あの子は休むことなく毎日登校し、休み時間はいつも他クラスへ遊びに行くか、じっと席に座って本を読んでいるかのどちらかだった。教室を移動するときはいつも全部の荷物を持って行っていた。もしそのまま教室に置いておけば、クラスの誰かが隠すか壊すかするからである。教師が不審がって尋ねても、あの子はただ口を閉ざすばかりで何も語らない。クラス全員が敵だ。助け舟を出す者はひとりも居なかった。あの子は独りだ。その中で、担任に告げる勇気は持てなかったのだろう。私たちはずる賢く、非常にうまくやっていた。
 そうして一年が過ぎた。クラス替えはなかった。だがあの子を取り巻く環境は劇的に変化したと言えよう。
 教室の階が変わり気分も新たになった私たちは、要するに、あの子に飽きたのである。なんとも理不尽で身勝手な理由だがそうとしか言えないぽっかりとした穴が、私の中にあった。新たな犠牲者が出ることもなく――もともと、私の不透明な感情が発端だったのだから――私のクラスは元の鞘に収まったのである。
 学年が変わって、私たちがあの子に何もしないと分かるや、今まで傍観者として消極的にいじめに参加していたクラスメイトたちがぽつりぽつりとあの子に話しかけ始めた。
「ごめんね」「無視して悪かった」そのような謝罪が繰り返されたが、そんなときあの子は何も言わずただ微笑み返すに留まった。私はといえば、今更あの子に何と言えば良いのか分からず結局口を利かずに終わった。
 そう、事務的な会話さえ一度も交わすことなく、終わったのだ。
 あれは誰もが楽しみにしていた遠足の日。朝早くにバスへ乗り込み、市内の大きな動物園へと向かう予定であった。しかし、バスよりももっと早い時間。連絡網が回ってきて遠足の中止を告げられた。電話を受け取った母は驚いたような顔をして、神妙に頷いて次の人へすばやくダイヤルしていた。
 回し終えて、居心地悪そうに私に言った。
「――さん……亡くなったそうよ」
 それはあの子の名字で、私はさぞかし間抜けな顔をさらしていたことだろう。どうして、と辛うじて聞いた気がする。しかし母は何も答えなかった。――そして、後の全校集会で自殺だと知った。
 私はすぐに感じた。
 ああ、自分のせいだ。私があの子を殺したのだ、と。
 私はそのとき初めて、自分のしたことの重大さを思い知ったのだった。
 クラスに戻り、担任は鎮痛な面持ちで教壇に立って、教室を見回していた。その顔は「よりによって自分のクラスで」と嘆息している。重苦しい雰囲気の中、いくつかの注意と話を聞き、解散となった。
 翌日、私は校長室に呼び出された。母も一緒だったため、幼いながらも話の予想はつく。
 校長、教頭、担任。母がどこか怯えたように視線をさ迷わせていたのを、よく覚えている。
 実は、と最初に切り込んだのは校長。私があの子をいじめていた、そんな情報を誰かから得たのだと言う。遺書にはそのような事実は書かれていなかったようだが、本当かと。母が驚いたように私を見て、私は素直に認めた。教師陣は拍子抜けしたように顔を見合わせ、母は私の頬を殴った。
 痛かった。
 そのとき初めて痛みに触れた気がして――私は涙を流していた。自分が無性に気持ち悪くて、泣いたのだ。歪む視界の中で、教師が母を止めているのをどこか遠くで見ていた。
 家でも父に怒鳴られ、殴られ、嘆かれ、前歯が折れたのと肋骨にひびが入った。さすがに母が仲裁に入ったが、校長室と同じく、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。
 あの子の葬式は家族や近親者のみで行われたと聞く。私は両親と共に謝罪に向かったが、敷居を跨がせてはもらえなかった。門に来たのも家人ではなく親戚だという。いわく「顔も見たくない」と、私はとてつもないことをしてしまったのだと一層自覚させられた。しかしそれ以上に「許す、許すからもう来ないでくれ」と言われたことが意外で、まだ謝ってもいないのにと私は途方に暮れてしまった。
 その後彼らは家を引き払ってしまい、私たち家族も逃げるように町を出たためお互い会うことは二度となかった。
 ……指先がかじかんでいる。ストーブが消えてから随分時間が経ったようで、白い息が漏れた。
 表面的には許されたけれど、決して赦されることはない。永遠に謝罪の機会を与えられないまま、宙ぶらりんの罪悪感を胸に、ここにこうして生きている。これが彼らなりの、私に対する報復なのだろう。
 いや、報復や仕返しなどという言葉では、まるで私がそれを悪と断じているような心持ちになって落ち着かない。なんと言えば良いのか分からないが、きっと彼らの行為に明確な名称などつけられないのだろう。私の抱いたあの感情に名がないのと同じで、この世には言葉には言い表せることのできないことが多々ある。その不明瞭で曖昧な部分がときに刃となり、またあるときは優しさにもなる。私の場合はそれが鋭い切っ先となってあの子を襲ったのだ。
 私がもっと賢ければ、そもそもあのような事態を招くことはなかっただろう。私がもっと愚鈍であれば、彼らの許しを素直に喜んだだろう。
 しかし私はどちらにもなれず中途半端に彷徨っている。人ひとりをこの世から消し去ったという事実に自暴自棄になったりもせず、いやらしいくらいに健康な体で――。 
 だから私は記憶を遠ざけ、近寄らないようにしていた。卑怯だが、それが自分なりの防衛であった。行くあてのない謝罪と消えることのない罪悪感からの、逃亡である。その試みは幾分かは成功したようだが、罪はいつでも小さなしこりとなって私の心にわだかまっていた。
 とはいえ――私自身も忘却は望んでいなかった。鉛の罪を引き摺って生きることを、無意識のうちに自分に課しているのである。
 その鉛を引く紐を伸ばして自分から極力見えない位置に置こうとしている臆病者が、私だ。幼い頃からずっと変わらず、臆病に生きているのだ。
 小さく息を吐いて、なんとはなしにアルバムのページをめくる。適当に開いたはずのそのページでは、あの子が笑顔で手を振っていた。これは私のクラスだけが特別に作った、あの子へ宛てたページだ。カメラ目線の瞳と、私の目がぶつかり合う。仕舞い込んでいたが故に褪せることなく過去を留まらせ続ける写真は、私の記憶をより鮮明に浮かび上がらせていく。まだあの子と仲が良かった頃の思い出だ。そんな風に笑いあった日々を思い出すのはなんだか罪のような気がして、いじめた記憶以上に避けていた。あの子へ向ける笑顔の寒々しさに吐き気を覚えるほどであった。
 だがそれが今、光に照らされて引きずり出されている。決して逃げるなと私に訴えているのだ。
 視線をずらして小さく切り取られた空を見る。曇った外界では橙色が闇に追われて地平線の向こうへ沈もうとしていた。廻光反照のように燃える橙はただ美しかった。見た者の心に強く焼きつけるかのように。
 それがいたく、沁みる。
 私は知らず知らず嗚咽を漏らして、アルバムをこの胸に抱えていた。

UP:2010/01/17