君の名を泡沫に

 勇者。それは世界が望んだ希望。
 魔王。それは世界が切り離した絶望。
 この「世界」というものが誕生したときから、きっとそれは――勇者が魔王を倒すというのは、世の絶対的な理だったのよ。同時に、それが誰もが待ち焦がれる未来なんだっていうのも分かってる。実際、世界はそういう風に流れていた。誰にも止められないし、その必要もない当たり前のことよ。後世に伝えられる歴史書に書かれる言葉はもう、全て決まっているの。
 絶大な魔力を有する魔王すらも「運命」から逃れる術はない。
 それが、しょせんはただの人でしかない勇者なら尚更のことだった……それだけの話。



 明日はいよいよ魔王の居城へ向かうという、ある意味で多大な緊張を強いられる夜。勇者の仲間として、私は今まで数多の試練を乗り越えてきた。中には試練と呼ぶのもおこがましい出来事もあったけど、ていうか私くらい魔法極めた存在にとってはどれも大したことないんだけど……でも今回ばかりはどうにもこうにも厳しすぎるわね。何か打開策はないのかしら。
 私が一人で悶々としていると、
「ノレ、今大丈夫?」
 遠慮がちに扉が叩かれた。
「あ、はい。どうぞ」
 返事の直後、勇者が部屋に入ってきた。装備は何もない、ふっつーの私服姿。よくある茶色の髪に、灰色の瞳と相まって、こうして見ると本当にただの青年という感じだ。直接会う前は、もっと常人離れオーラとかあるのかと思ってたけど、実際はそうでもなかった。がっかりしたと同時に、少しだけ……安心したのも事実だった。
「勇者様、どうしました?」
 こんな夜中に、レディの部屋にやって来るなんて珍しい。真面目な勇者のことだから、何も間違いは起こらないとは思うけど……こんな壁の薄い宿屋の一室で子供には言えないような事態に陥ったら、僧侶のサフェは「婚姻前の男女がそんなふしだらな!」とか何とか、怒るかもしれない。
「いや……もしかしたら今日が最後の夜になるかもしれないと思って」
 弱気な発言をしながら、空いてる場所に腰を下ろした。私も向かい合って座る。
「縁起でもないこと言わないで下さいよ。民の光である勇者様がそんなんでどうするんですか」
「光……そうだね」
 沈黙が下りる。気まずい空気ではないけど、それでもちょっと居心地が悪い。勇者はじっと床を見つめて何か考えている。
「本当にどうしたんですか? 大丈夫ですよ、いざとなったら私の魔法で城ごとぶっ壊してあげますから」
 おどけると、勇者がふ、と笑った。それはどこまでも優しい笑顔だ。私はいつしかこの微笑みに惹かれるようになっていた。最初は全然そんなつもりはなかったのに、いつの間にか彼の姿を追いかけるのが癖になっていた。
 でも、彼は勇者。絶対に好きになってはいけない相手の筆頭だ。
「それは本気でマズイ状況に陥った時にお願いするよ」
「あらあら、遠慮しなくても良いのに」
 二人でくすくすと笑いあった。淀んでいた空気が動き出すのを感じる。
「ねぇ、ノレ。明日は魔王城に行くわけだけど――怖くはない?」
「怖くはありません、勇者様が居ますから。魔王は必ず滅びると信じています」
 一体まあどこの口がほざくのやら。ううん、確かに本心に変わりはないのだけど……こんな台詞がスラスラと出てくるようになったのは、我ながら恐ろしい。
「はは、ありがと。テハックとサフェにも同じことを言われたよ」
 嗚呼、私ともあろう者が、あんなムサイ格闘家と僧侶と同レベルの発言をしてしまった。嘆かわしいことね。
 現実にくらくらしてる私を見つめる、優しい眼差し。それだけで私の心臓は鼓動を増す。この視線を奪うようなことがあってはならない――そう思うようになったのはいつの頃からか。
「俺は正直言って、怖いんだ。勇者が必ず魔王を倒すなんて、誰が決めた? そのために払われる犠牲はどれだけある? もしかしたら犠牲になるのは、君かもしれない……そう思うと、居ても立ってもいられないんだ」
 普通の女が全世界の憧れにこんなことを言われたら、昇天間違いなしよね。でも私は、その台詞に籠められた彼の気持ちに応えてはいけない。
 彼は勇者。勇者なのよ。世界に望まれた光の子。対して、私は……
「ノレ、これあげる。この辺りに伝わる幸運のお守りなんだって、宿屋のおじさんが言ってた」
 そう言って取り出したのは、一輪の白い花。華美さはないけど、素朴な愛らしさが備わっていた。
「可愛い花ですね」
 私は自分のローブに花をつけてみた。コサージュとするには小振りだけど、白が黒い服によく映える。
「どうですか、勇者様。似合います?」
「うん、可愛いよ……あのさ、ノレ」
 勇者は真っ直ぐに私を見つめる。
「今は二人しか居ないわけだし……名前で呼んでくれないかな」
「あ……えっと」
 真摯な瞳に、私は思わず視線を逸らしてしまった。「その……」決して目は合わせずに、言葉を続ける。
「平和な世界になって、貴方が勇者である必要がなくなったら……その時は」
 私のいつも通りの答えに、彼は落胆を滲ませて苦笑した。「そうだね。じゃあもうすぐ呼んでもらえるかな」寂しそうな笑顔が私の心を揺さぶる。
「ええ、早ければ明日ですよ」
 動揺を抑え込んで、声を出した。
 ――そんな日は永遠に来ないことを、私は黙っていた。
 呼べるわけがないわ。呼んではいけないのよ。
 勇者。それは、私の理性が壊れないための最後の呪文。彼は勇者でいる必要があるの。勇者である限り、私は彼を愛さないで居られる。
 天地がひっくり返ろうとも、彼を愛してはいけない。
 だって、私は……私こそが、魔王なんだもの。



 魔王業なんてのは、結構退屈なものよ。勇者を倒すために魔物を送り込んで、やられたらまた送り込んで……そんな単純作業――なんて言ったら部下に悪いけど――の繰り返し。
 私は勇者に倒されるために、勇者が標的を見失わないように、城でひたすら待っているだけなの。
 暗い暗い魔王の間。世界の害悪として生を受けた私自身の世界は、あまりに狭い。笑っちゃうわね、人々を恐怖に陥れている私が、こんな小さな空間に押し込まれているなんて。
 気が狂うことも許されず、私はひたすら部下に命令を出していた。部下の報告はいつも決まっている――勇者にやられた、だ。いっそ魔王城をこの手で壊して魔王は死にました、ということにしようと思ったけど、結局部下に止められた。結構本気だったんだけどね。
 でもある日、いい加減退屈過ぎて私は城を出た。人間に化けて勇者一行の元へ向かったわ。魔王の魔力をもってすれば人間に姿を変えるなんてお手のものよ。
 城に居た部下には「もうお前達に勇者を殺せと命令しない」と約束した。自分が助かるのならと皆大賛成で私を送り出したわ。薄情ね。
 まあ、そんなことはどうでも良いのよ。私は晴れて自由の身。早速勇者の顔を拝みに行ったわけよ。あわよくば、その場で殺してしまおうってね……。
 でもそんな考えは勇者を一目見て吹き飛んだの。
 恋に落ちたから? ううん、あまりの平凡さに驚いて毒気抜かれちゃっただけよ。これならサフェとテハックの方がよっぽど、闘志とか、そういうのに満ちていた。
 彼の仲間には魔法使いが居なかったから、私が魔王討伐に加わりたいと申し出たら快く迎えてくれたわ。私は勇者一行の紅一点として、大活躍……とは言っても、魔法で倒す振りをして部下をどっかに転送してるんだけど。
 とにかく、私はすぐに勇者達の信頼を得た。
 それでも最初は寝首をかいてやろうとか考えてたんだけど、私は気づいてしまったのよ。彼を慕っている自分が居ることに。
 きっとそれが、彼が勇者たる所以だったのよ。誰をも惹きつけてしまう魅力。言ってしまえば人柄ってやつ? そりゃそうよね、世界の救世主である勇者が人間に嫌われてしまったら終わりだもの。
 勇者も勇者で、私を気にしてくれていた。とてつもない皮肉のように思えたけど、勇者と魔王、どんな場面においてもお互いが気になるものなのかもしれないわね。
 そう時間もかからず、私と勇者はめでたく相思相愛の仲となった。
 けど、私は魔王。その事実を忘れてはならない。彼が勇者で居る限り私は彼を愛してはいけないし、彼が勇者でなくなるとき――それは私の死を意味する。もしくは彼自身の死、だ。
 どう転んでもあまり良い結果はもたらさない。
 だからこそ悩んでる。明日どうしようって。魔王の間には誰も居ないわ。魔王はどこだって話になるわよね。ここで「魔王は居なかったのよ、めでたしめでたし」とか言っても真面目な勇者のことだもの、絶対納得しないわ。
 ここは悪役らしく「騙されたな、勇者め!」とか高笑いかましながら正体を明かした方が良いのかしら? ううん、でもそんな風に記憶されるのは嫌だし……
「ああもう、どうしろってのよ!」
 堪えきれず毒づいた。八方塞じゃない。
 そのとき、サフェの祈る声が壁越しの聞こえてきた。
「神よ……忠実なるしもべに、神と英霊のご加護を」
 真面目なことね。何もしてくれないわよ、神なんて。私を拝んでくれたら一生死なない体にしてあげても良いけど。仲間のよしみでゾンビかスケルトンかくらいなら選ばせてあげるのに。
「ん……英霊? これは使えるんじゃないかしら?」
 あまりに突拍子もない考えだったけど、もうそれ以外に方法はないかもしれない。私は……少なくともノレという人間は、綺麗なまま勇者の記憶に留めておける。
 このひらめきはきっと、魔王に許された唯一の「抵抗」に違いない。それはとても愚かで憐れな選択かもしれないけど、私に残された道はもうそれしかないわ。
 私は誰も居ない部屋で、少しだけ唇を持ち上げた。勇者から貰った花を、丁寧になぞりながら。
 生まれて初めて感じる、頬を伝う温かさにはあえて目を向けずに……。



 魔王城へ向かう、運命の日。私達は町総出の見送りを受けて発った。魔王の攻撃をも跳ね返すという伝説の武具をまとった勇者は、昨晩の数倍はそれらしく見えた。太陽を反射する、磨き上げられた鎧。希望の光そのもののような姿に、人間達は全ての望みを託した。
 勇者の勝利を願い、魔物討伐の声援を送る声はいつまでも止むことはなく、私達の背中を押す。
「凄い声だな、ありゃよ! いよいよ負けらんねぇぜ!」
 興奮してきたのか、テハックが勇ましく吼えた。鍛え抜かれた体躯が威嚇するように奮える。武道着から露出する二の腕は筋骨隆々を地で行く逞しさで、勇者なんて簡単に吹っ飛ばされてしまいそうだ。
 負けるとは微塵も思ってないんでしょうね、こいつ。こんなのに過小評価されてる事実がちょっと腹立たしい。
 私は無意識に、昨晩勇者に貰った白い花に触れた。
「あれ、それまだつけてくれてたの?」
 勇者が目ざとく見つけて、驚きを表す。
「魔法もかけてあるので、すぐには枯れませんよ。幸運のお守りが枯れてしまったら縁起が悪いですから」
「確かにそうだね」
 横からサフェが同意した。「違いねぇ」テハックも笑う。
 そんな感じで割と和やかに進んでいたが、いよいよ魔王城が見えてくると自然と口数も減っていった。三人が緊張しているのが伝わってくる。あと怖がってるみたい、少しだけ。杖を持つサフェの手が、強く握りすぎてるみたいで白くなっている。
 私は当然怖いとかはまるっきりないけど、これから私を倒しに行くぞって息巻いてるんだから、別の意味で緊張するわね。
 私は意識を集中させて、部下へ指令を送る。
 ――全部隊へ通達。今から勇者が突撃してくるから、適当に相手して逃げなさい。逃げ遅れたら私が転送してあげるけど、少し痛い目見るわよ。
 ちょっと不満そうな声が返ってきたが、魔王の言葉を拒否する愚か者は居なかった。
「なんだか、空気も悪いな」
 勇者が顔をしかめた。
 聳える懐かしの我が家。暗黒色の城壁はこの世の絶望全てを塗りこめたかのように美しく、庭に生えた禍々しい毒草はどれも鮮やかに咲き誇っている。
 ああ、ついに帰ってきたのね。
「……門番は居ないのか。不用心だな」
 サフェが疑問の声をあげる。
 いや、ガーゴイルが居たはずなんだけど……初っ端から逃げやがったわね。まったくもう、誰が創ってやったと思ってるのかしら! 嘘でも良いから忠誠心くらい見せなさいよね。
「まあ、簡単に入れるのならそれに越したことはないですよ。さっさと魔王を倒して帰りましょ」
 皆納得がいかなそうな顔をしながらも頷き、足を踏み入れた。トラップ類は全部解除してある。というか、私が城を出るときに引っかかって使い物にならなくなっただけなんだけどさ。自分の部下ながら、罠職人の技術の高さには感動すら覚えたわね。
 入ったら入ったでぱらぱらと部下が襲い掛かってくるだけで、これだったら伝説の武具を取りに行ったときの方がよっぽど激戦だったよねーと笑いたくなるような展開が待っていた。数回打ち合っただけで「わーやられたー」「こりゃ敵わん」「魔王様に報告だ」と逃げ去っていく。どこの大根役者だ。演技指導もしておくべきだったかしら。
 これにはさすがに三人も何だか様子が変だと気づき始め、怪訝そうな顔をする。
「何かの罠かな。あまりに敵も少ない。出てきてもあれだし」
「でも敵が少ない方が好都合じゃありません? 力を温存しておけますから」
 ずばっと「何もありません」って断言したいけど、罠なんてないのが分かってるのは私だけ。歯痒いわねぇ、この状況。
 そんなこんなで、怪しまれながらも何とか勇者達を魔王の間まで連れてきた。扉一枚隔てた向こう側には、魔王が待ち構えている――と思ってる三人は、さすがに緊張しているみたい。
「皆、準備は良い?」
「ちょっと待ってください」
 止めたのは、もちろん私。「どうしたの?」問いかけてくる勇者に、私は静かに告げた。
「私が先に様子を見てきます。三人はここに居てください」
「そんなのダメに決まってるだろ!? 何考えてるんだ!」
 勇者が強く反対した。サフェとテハックも「とんでもない」と頷く。
「四人で突っ込む必要はないでしょう? 私なら結界も張れます。……どうしてもダメと言うのなら、せめて私を先頭にしてください。最後くらい、私に皆を守らせて」
 まだ渋る三人に微笑みかける。
「大丈夫ですよ、私には幸運のお守りがありますから」
 それでも勇者は首を縦に振らず、結局二人並んでいくことで妥協した。んー、ちょっと、何というか……喜んでる私は、何なのかしら。
「それじゃあ……行こう!」
 力強い掛け声に、思考は中断する。私は勇者と並んで扉に手を押し開いた。
 扉が開ききる前に、私は駆け出す。勇者よりも早く。咄嗟に伸ばされた手を振り払うようにして、杖を振るった。
 閃光。爆音。立ち込める灰色の煙。私の名を叫ぶ声。
 それはおそらく、二度と私に向けて発せられることのない名。私は爆煙に紛れて変身を解く。素早く玉座に腰掛け、煙が晴れるのを待った。
「ノレ!」
 ノレという人間は今、死んだ。元から生まれてすらいなかった存在だから、それもおかしいかしらね。
 そう、私は……
「よく来たわね。勇者と、その仲間達。私がこの城の主だ」
「魔王……! ノレをどうした!?」
 煙が引いていき、私の本来の姿が彼らの瞳に映る。鮮血色の髪。黄金の双眸。立派な角。青白い肌。どれを取っても、人間ノレとは結びつかない。
「あの愚かな人間のこと? 跡形もなく消し飛んだわよ」
 私は唇を持ち上げる。「ノレ」が居た場所は黒く焦げ、そこに何かが居た痕跡など何ひとつ残ってはいない。
 ……あー、よく見れば花が残ってるみたいだけど。勇者も気づいたみたいで、素早く花を拾い上げた。
「本当なら、全員吹き飛ばすはずだったんだけど……あの人間に感謝することね」
 自分のことをこんな風に言う日が来るとは。何だか少し気恥ずかしい。しかし私の心情など露知らず、勇者達はあからさまに顔を歪める。勇者なんて涙すら流しそうな勢いで、拳を強く握っていた。
「やっぱり、無理にでも止めておけば良かったんだ! 俺のせいだ……」
「何だか知らないけど、後悔ならあの世でやってよね」
 私は冷たく言い放つ。三人は私に瞳を向ける。そこには憎しみ以外、何も宿ってはいなかった。あの優しい視線は、どこにもない。
 剣の切っ先が私を捉える。
「魔王。世界の害悪。そして……ノレの仇。俺は絶対、お前を倒す!」
「行くぜぇ!」
 勇ましい叫び声と共に、勇者とテハックが向かってくる。サフェは後方支援。いつも通りの陣形だ。魔王としては、うざったい癒しの術を持つサフェを最初に殺すべきなんでしょうけど……。
「……まぁ、どの道運命は決まってるから」
 同じ釜の飯を食べた仲っていうの? とにかく見逃してあげるわよ。私は立ち上がる。勇者の剣を結界で弾き、テハックの蹴りをかわした。二人が距離を取る。突き刺さるような殺気が痛い。
「どうしたの? 赤子の遊びじゃないのよ、これは。その程度で私を倒そうなんて、甘い!」
 腕を振るう。それだけで爆風が起こり、三人を吹き飛ばす。床に叩きつけられ噎せる勇者達――あ、マジメに苦しそう。加減を間違えたかしら――を冷ややかに見下ろした。
「あーあ。これじゃ勇者の肩書きが泣くわねぇ。私を倒そうなんて、浅はかな夢でしかないのよ」
 哄笑の裏で、私は自分を問い質す。
 実際に愚かな夢を思い描いていたのは誰? 魔族のくせに、人間を愛したのは誰なのよ!
「ノレの仇を討つまでは死なない。刺し違えてでも、お前を……!」
 正直、ここまで激しく感情をあらわにする勇者を初めて見た。それだけ私が――ノレが大切だったということ? 何だか、少し悔しくなってきた。私はノレなのに……ノレは私なのに!
 もし私が「ノレ」だと打ち明けたら勇者は何て言うかしら。嘘だと、かえって怒りに狂う? 姿を変えて見せても、侮辱だと憎しみを増やすだけ?
 ……万能に近い魔力を、これほど煩わしいと感じたのは今この瞬間が初めてね。
 全てをぶちまけてしまいたいという衝動に駆られたが、私は首を振った。今更何を考えているのかしら、未練がましい。
 これが、選んだ道。あとはもう、歩くだけで良いのよ。
「余所見してんなよ!」
 唐突にテハックの声が響いた。はっと顔を向けると、すぐそこまで巨体が迫ってきている。
 ――早い!
 恐らくサフェの支援だろう。「う、ぐぅ……」腹に喰らった一撃は予想外に重い。刹那、バランスを崩す。そこにサフェの呪縛の術が飛んでくる。
(うわ、最悪。あんなのの術にかかるなんて)
 でも、それだけ私の精神が乱されているということ。私、魔王の器じゃなかったのかもね。
「今だ!」
 叫んだのはサフェかテハックか。はたまた、私か。
「これで終わりだ!」
 答えを導き出す前に、私の心臓は勇者の剣によって貫かれていた。さすがは、魔王を倒すためだけに作られたという剣。瞬く間に力を奪われた。
 剣を刺したまま崩れ落ちる。
 願わくば、来世では……
「ヨジュム――……」
 人間として、ひとりの女として、この名を呼べますように。
 今はただ、英霊として綺麗なままあなたの記憶に残ることを期待して――私は瞳を閉じた。



 ――ノレの丘。
 その地域では有名な「幸運の花」の群生地として知られる名所だ。しかし英霊の名を冠せられている理由と、かつてここに魔王城があったことを知る者は、今は少ない。

UP:2007/12/21