投稿No.XXXXXX エレベーター

 あれは先輩が辞めて二年もした頃の夏でした。私以外の従業員はみな帰った後です。
 その日はセール初日でものすごく混雑していて、エレベーターを待っている間に足が本物の棒になってしまうのではないかと感じるほど、ぐったりしていたんです。デパートに勤めて数年でしたが、未だあの店内の混乱っぷりには慣れません。
 エレベーターのランプがのろのろと上がってきます。亀の徒競走を見ているようです。どちらでもいいから早く来てくれと、ここが十階であることに改めて舌打ちが出ました。従業員用も三つあれば良かったのに。言っても詮ないことですが。
 それに窓から見える景色がどしゃ降りの雨で、窓もガタガタ揺れるし……と言いますか、デパート全体が揺れていたようにも感じられて、正直なところ少し怖かったのです。
 従業員用通路については、あなたもかつて勤めていたからお分かりでしょう。
 デパートの閉店後はほとんどの電気が消され、エレベーターホールは警備室からもれるわずかな光だけでぼんやりと周囲を把握できる程度です。今もそれは変わっていません。
 憂鬱な息を吐いたとき、ようやくエレベーターが到着しました。運良く目の前です。地下一階を目指して、再びカゴが下ります。
 とても静かでした。空調が効いてないせいで、せっかく拭きとった汗がじっとりと肌を這う感覚が非常に不愉快だったのをよく覚えています。ステンレスの壁には私の顔がただ黒と肌色のかたまりとして映り込んでいました。
 ……唐突に、ピーン、と高い音を立てたエレベーターに心臓が止まりそうになりました。私以外はいないと思っていたものですから。扉上のインジケータは七階を指していました。
 でも、開いたドアの先には誰もいませんでした。首だけ出して見回してみましたが、うす暗いエレベーターホールには本当に誰もいませんでした。
 十階の私がエレベーターを呼んだから、きっと七階は素通りされてしまったのでしょう。それで、待ちきれず階段で帰ってしまった……もしくはもうひとつのエレベーターが先に来たのかもしれません。取り立てて珍しいことではないでしょう。
 けれど、そうではありませんでした。
 私は生ぬるい壁にもたれかかって、なんとはなしにステンレスの壁に映り込んだ、ぼやけた自分のモザイクを見やって、悲鳴をあげそうになりました。

 ――増 え て い る。

  私にほとんど重なるようにして、しかしはっきりと、二人分の姿が在るのです。私の髪は見ての通り肩までしかありませんが、そのとき映った影はどう見ても、それ以上の長さのものでした。
 体を覆う汗がどっと増えました。腕をさするとむしろ冷たいくらいです。
 振り向くことは、できませんでした。視線をやることさえ、恐ろしかったのです。
 息遣いさえも聞こえてきそう静寂に包まれていることに狂ってしまいそうでした。
 ――ピーン。再び、エレベーターが止まりました。そっとインジケータに視線をやると、五階となっていました。
 開く。暗い。誰もいない。いや、違う。
"それ"の姿を認めたとき、私の理性は弾けました。

「あ、あぁぁ……ああああああああ! あぁあああぁぁあぁあああ!」

 一心不乱に『閉』ボタンを連打しました。カゴの外に出るという選択肢は、ありませんでした。

 ……ぺとぺとぺと……

 暗がりの中にあってなおはっきりと浮かび上がる"それ"が――"裸足の足"が今まさにエレベーターに乗り込もうとしていたのですから。
 閉まれ閉まれ閉まれ閉まれ閉まれ早く早く早く早く閉まれ閉まれ閉まれ閉まれ閉まれ閉まれ早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く!
 ――す、と音もなく「開」のボタンが光りました。
 ドアが中途半端な位置で止まり、無情にも再び開いてしまいました。「どうして! どうして!」私は夢中でボタンを押し続けていましたが、"足"はぬるりとエレベーターに乗り、すぅと壁に吸い込まれていきました。
「あ、ああぁうわ……」
 奥歯が鳴ってうまく言葉が出ませんでした。金縛りにあったかのように、全身が硬直して動かないのです。膝が笑うままに任せて、私はただただ、押しボタンの列を凝視していました。
 私に重なる、身動ぎひとつしないモザイクの女がじっとこちらを見つめているようで、ねっとりと絡みつく視線と、空気と、汗が、肺を圧迫してきました。視線だけを遣っても、やはり何もいません。押しつぶされそうな恐怖の只中にあった私の唯一の希望は、するすると下っていくインジケータのランプだけでした。
 また、エレベーターが止まりました。音もなく開く扉。ぼんやりとした光りに浮かび上がるエレベーターホール。窓の外には、遠い景色。
 そして私は気づきました。気づいてしまったのです。
 窓にうっすらと浮かび上がった、私の乗ったエレベーター。
「あ……あ……」
 存在するはずのない、三つめのカゴ。
 ――私が乗っているのはいったい、なんだ?
 考えるより先に、反射的に飛び出しました。飛び出そうと、しました。

 ……も う お そ い……

 ありえない勢いで扉が閉じられ、私はカゴの中に投げ出されるような形で倒れこみました。無意識に視線を向けた先では「ひっ……」壁に映り込むモザイクの女が真っ赤な唇を引き上げて笑っていました。

 ……も う お そ い……

 急激に落下するときの、不愉快な浮遊感。そのとき私を包んだのは、まさしくその感覚でした。
 女の声に呼応するように、インジケータが狂ったように明滅を繰り返しました。
 押しボタンがでたらめに光り出しました。
 無数の影が壁に爪を立てて私を見下ろしていました。
 重量オーバーを知らせるブザーが狂ったように鳴り響きました。
 壁が時に負けたかのように錆つき始めました。
 無数の腕が私に向かって伸びてきました。
 すべての数字が意味を失ったかのように剥がれ落ちました。
「っ――――! ――――――――っ!」
 終わりのない奈落の底へ向かっていくカゴの中で、やがて意識が遠くなるのを感じました。そして最後に視界に映ったのは、『女と重なるようにして立つ』、私自身のモザイクのような影でした。




 元後輩の話を聞き終える頃には、わたしの背筋はすっかり冷えていた。頼んだアイスコーヒーの氷がカラリと鳴った。
「冗談じゃなく怖いね……それが原因で仕事辞めたの?」
「えぇ、まぁ」
 それはそうだろう、と頷いた。わたしがそんな目に遭ったら、次の日すぐさま退職届けを郵送していたに違いない。
「よく今日このデパートに入る気になったね」
「あの日のような夕立ですし。それに先輩が見えたので」
 デパート十階のレストランフロア、喫茶店の窓際席。帰ろうと思った矢先に降られ不運を呪ったが、こうして懐かしい顔とお茶をできたのだから雨もそう悪くない。外に目を向ければ、突然の豪雨に慌てふためく人々の頭が見おろせた。空は不穏な色を放ち、どんよりと暗い。分厚い雲が地面にのしかかってきているようだった。
 しかし雨の勢いはそう長くは続かず、滝のように打ち付けるような雨音は徐々に弱まってきていた。
「そろそろ行こうか」
 後輩を促す。一応エレベーター前まで来たものの、あんな話を聞いたあとでは少し躊躇われた。
「階段で行く?」
「いえ、大丈夫です。エレベーターを使いましょう」
 後輩もトラウマだろうに、笑顔で首を振った。そもそもこの階に来るのにエレベーターを使ってたから、わたしもそれ以上は言わなかった。それに、今は深夜でもなければ、人もまばらにいる。
 インジケータのランプがのろのろと十階に近づく。
 ピーン、と到着を告げたのは運良くわたしたちの目の前、一番端のエレベーターだった。静かに扉が開く。雨もやみ、加えて食事には中途半端な時間帯のせいか誰も乗っていない。
 後輩がさっと乗り込んでドアを押さえてくれた。「さぁ先輩、どうぞ」声に促されて一歩踏み込――もうとした。わたしの喉から引きつった息が漏れた。
 後輩の姿が、ない。
 その代わり、壁に映り込むたくさんのモザイクたち――おぼろげな輪郭から伸ばされる手だけが妙にはっきりとした線を持って、私を引きずり込もうとしている。おいでおいでと、揺れている。
 デパートのわずかながらの喧騒は消え、弱まったはずの雨音がザアァアと背中を押してくる。
「……っ!」
 心臓が不愉快に脈打ち、反射的に身をひねった。そのまま「閉」ボタンを連打する。
 かつて後輩がやったように、執拗に、何度も何度も何度も何度も。

 ――ちっ……。

 扉が閉まる刹那に聞こえた舌打ちがいつまでも、耳の中でこだましていた。

 いつの間にか空は、きれいな青を見せていた。

UP:2012/08/15