薔薇ノ柩

 いづれ朽ち逝くならば、せめてあの人の腕の中で。
 降りしきる雨の中、薔薇は美しい花弁を濡らして願う。あの日自分に触れた指にもう一度会いたい。どうかこの身が朽ちる前に……。
 雨は一晩中降り続ける。
 ――絶え間なく注ぐ悲しみのように。



 少女は鮮やかな深紅を誇る髪を乱して彷徨っていた。
 質素だがそれ故に落ち着いた雰囲気の家々が並ぶ村を、ある人物を探して回る。
 数日続いた雨で道はぬかるみ、裸足の足は必要以上に泥で汚れていた。ワンピースの裾にも泥がはねるがそんなの構っちゃ居られない。自分には時間がない。恵みの雨も、母なる大地も、今ではただの障害でしかなく、慣れない中、懸命に歩を進める。
 乱れた前髪から双眸を覗かせ、少女は農作業をする人に、道行く人に、窓から見える家の中に、視線を走らせた。違う、違う、見つからない。
 不安が心を満たし、焦りにとにかく足を動かした。
『どこに居るの……あっ』
 揺れる視線が一軒の店で止まる。より正確に言うならば扉を開けて出てきた青年に。
 丁寧に梳かれた優しい茶色の髪に、温和な灰色の双眸。
 間違いない、忘れるはずもない――彼だ。
 あの日、優しく撫でてくれたのは。
 やっと出会えた嬉しさに高鳴る胸を静めながら、少女は駆け出そうとする。
 しかし、
「ランシュ、少しは持ってよ」
 彼に続いて出てきた女性を見て足を止める。きちっと結い上げられた金髪と空色の瞳。頬を膨らますその姿は少女から見てもとても可愛らしい。おそらく恋人だろう。
『ランシュ……』
 覚えたての彼の名は、どことなく苦い。
 少女は去っていく二人の背中をただ凝視したまま、呆然と佇む。
 あんなに焦がれていた人が目の前に居たと言うのに、あの二人の世界に割って入る勇気が出なかった。彼、ランシュに恋人が居るなんて考えもしなかった。漠然と、自分が恋人であるような想いを抱いていた。そんなはずはないのに。
 このまま進むべきか。それとも、戻り、幼く愚かな幻想を抱いたまま朽ちるのをただ待つべきか。
『それは、嫌』
 せっかく与えられた機会。せっかく起こった奇跡。決して多くはない時間を無駄にはしたくない。少女は躊躇いを振り捨て、二人の後を追った。
 村の中心から少し外れた場所に位置する家に二人は入っていった。
 時は昼、しかし周りに人はほとんど居ない。少女は冷たい土を踏んでそっと窓に近寄る。
 数回の深呼吸、意を決して中を覗こうと身を乗り出し――
『……っ!』
 ぬかるんだ土に足を取られてその場で転んでしまった。景気の良い音を立てて額とガラスがぶつかる。少女は感じたことのない痛みに額を押さえてうずくまった。目の端に涙が浮かぶ。
「だ、誰か居るのか?」
 頭上から声が掛かった。焦がれて焦がれて仕方なかった、あの人の声だ。驚きと恥ずかしさと嬉しさに心臓の鼓動が一気に跳ね上がる。そっと視線を持ち上げると窓から身を乗り出す彼の灰色の瞳と目があった。傍らには不安そうな表情の恋人の姿。少女より二、三歳は年上か。間近で見る彼女は本当に美しかった。
「あなた、血が出ているじゃない! 消毒しないと」
 言われて、少女は初めて自分の頬を伝う生温かい感触を認めた。恋人はランシュに「この子を家に入れて。私は薬を用意するから」と言って奥に引っ込んだ。
「右手に回ってもらえるかな。井戸があるからそこで洗うと良いよ。玄関の鍵をあけておくね」
 と言うランシュに頷き右へ回った。冷たい井戸水で顔を洗う。血はすぐ止まった。本当に血なのかどうかは怪しいところだが。
「包帯を切らしてるみたいなんだ。買ってくるから少し待っていて、ごめんね」
 玄関へ行くと入れ替わり外へ出るランシュに微笑みかけられた。それだけで傷の痛みなど吹き飛ぶ思いだ。
「さ、ランシュが……あ、彼の名前、ランシュって言うの。私はステラよ。あなたは?」
 イスを用意し、優しく微笑みかけてくるステラに少女は返す言葉を知らなかった。言葉は話せない。仮に言葉を発することができたとしても、名前など持ってはいない。
「もしかして喋れないのかしら?」
 用意したイスに少女を招くステラの顔が曇る。ぎくしゃくした動きでそのイスに座り、浅く頷いた。
「そう、残念ね……きっと素敵な声だったでしょうに」
 本当に残念そうに俯くステラ。少女はどうして良いか分からず、座ったままおろおろするばかりだった。
「あ、ごめんなさいね。すぐに冷やすものを持ってくるわ」
 ぱたぱたと駆けていく背中を見送り、少女はすることもなくぼーっと部屋を見回した。
『あ……』
 さっきまでは緊張のあまり気づかなかったが、玄関横の、少女の胸ほどの高さもある棚に大きな花瓶が置いてあった。飾られているのは美しく鮮やかな薔薇。あの日ランシュが摘んでいった薔薇達だ。
 少女は立ち上がり、誘われるようにその中の一本に手を伸ばす。あの日彼がそうしてくれたように、そっと花びらをなぞる。
 瑞々しい深紅の花弁。果て逝くだけの自分とは違い、これからが最も美しく咲く時。――どうしようもなく羨ましい。できることなら自分もこうして飾って欲しかった。
 何故「彼」という存在を知ってしまったのだろう。何故こんなにも焦がれてしまったのだろう。温もりを知らずに朽ちて逝けたなら、どんなに安らかだっただろう……でも、それはどんなに哀しいことだっただろう。
 目を閉じれば、今でも蘇ってくる。初めて感じたあの温もりが。
「その薔薇気に入った?」
 ふいに背後からかけられる柔らかな声。肩越しに振り返ると、氷をお盆に載せたステラが微笑んでいた。
「この近くに森があるのは知っている? その奥に薔薇の咲く場所があってね、それはランシュが摘んできてくれたものなの」
 近づいてきて嬉しそうに話すステラに、少女は頷いた。意味は自分でも良く分からないけれど。
『……』
 言い終わったステラは氷をテーブルに置くため少女に背を向ける。その背中を見つめていた少女はふと思う。
『この人が居なくなれば、ランシュは私を見てくれるかもしれない』
 馬鹿なことを考えるな、と理性が警鐘を鳴らす。しかし一度その甘美な考えに傾いた心は容易には戻ってこられなかった。
 唾を飲み込み、薔薇を一本抜き取る。茎は途中で切られているが、両端を持てば十分な長さだ。おまけに棘もある。これ以上ない程美しい凶器に思えた。
「でもすぐに枯れてしまうのが寂しいわね」
 氷を袋につめながらステラが苦笑する。背は向けたまま。
 ともすれば荒くなってしまう呼吸を必死に抑え、薔薇を持った腕を彼女に向かって伸ばす。手が緊張に震える。渇いて張り付く喉が気持ち悪い。
『ダメ……ダメよ』
 頭では分かっていても身体が止まらない。ステラが居なくなったところで、ランシュが自分を見てくれるわけない。彼女が死んだと分かれば、彼はきっと悲しむ。そして自分を憎むだろう。そうなることは火を見るより明らかだというのに。
 それでも。それでも、堕ちた心は言うことを聞いてはくれない。
 あと一歩だ。今反対側から手を回せば簡単に首を絞められる。
『ステラ、気づいて、お願い!』
 思考と身体が噛み合わない。まるで自分の物ではないみたいだ。
 少女が必死になって身体を押し留めていると、ふいに玄関が開けられた。
「ただいま! 包帯買ってきたよ」
「お帰りなさいランシュ」
 少女はランシュの帰宅に急いで手を引っ込めた。ランシュをちらっと盗み見る。彼はステラに包帯を渡しながらこちらを不思議そうに見ていた。
 ――今の、見られた?
 身を硬くして彼の言葉を待つ。どんな非難の言葉が出るだろう。どんな罵声が飛び出るだろう。しかしそうされて当然のことをしようとした。
「ランシュ、どうしたの?」
 ステラが問いかける。ランシュが何か言おうと口を開く。少女は心に尽きぬ程溢れる恐怖と罪悪感に押し潰されそうになりながらも、懸命に彼を見据えた。
「あぁ、それも良いかもなぁと思ってさ」
 しかし少女の予想に反して、彼は笑った。ステラと二人疑問符を浮かべるが、彼はそんなこと気にせず薔薇を一本抜き取ると、ステラの髪にそっと絡ませた。
「今あの子がさ、ステラの髪に薔薇を飾ろうとしてたんだよ」
 少女は唖然とした。まさかそのように解釈されるとは。
「ステラが気づいてあげないから、身長が足りてなくて困ってたぞ」
「そ、そうなの? ごめんなさい私ったら気づかなくって……」
 少女は両手で茎を握り締めて思いっきり首を横に振る。そんなんじゃない、と叫びたかった。
「そんなに強く握ると危ないよ。……ほら、君も」
 ランシュが近づいてきて、少女の手から薔薇を奪い取る。はっとして顔を上げると、目と鼻の先に焦がれた人の顔があった。それだけで胸中に嵐が吹き荒れる。
「目立たないかと思ったけど……そんなことなかったね。良く似合ってるよ」
『あ……っ』
 笑顔のランシュが、ぽん、と少女の頭に手を置いた。
 伝わる温もり。
 望んで、焦がれて、諦めかけた、あの温もりだった。
「あっ、ランシュ、なに泣かせてるのよ?!」
「わ、どうしたの? ごめんね、棘が刺さった?」
 首を振り、慌てて薔薇を取ろうとするランシュの手から逃れるように一歩後ろへ下がる。
 そして、涙で濡れる顔を上げて笑った。きっとこの笑顔は美しく咲き誇る薔薇でさえ敵わないとびきりの笑みになったに違いない。
『枯れ逝く私に、最後の煌めきを有難う』
 あなたに焦がれて花を濡らす日々も、もうお終い。
 窓枠に腰掛ける。二人の困惑した表情を見て、くすりと笑った。
『決して絶えることのない、永久の幸せを』
 最期に二人の姿をしっかりと焼き付け、少女は身体を外へ投げ出した。
 空を見上げる瞳に、眩しい太陽が煌めき――



 ランシュとステラの二人が窓の外を見下ろすと、そこには少女の姿はなかった。
 代わりに――
「薔薇?」
「でも、一本は枯れてるわね」
 最初に少女がうずくまっていた場所。そこに二本の薔薇が落ちていた。一本は美しい赤を誇る、先程少女の頭に飾ったものだった。
 もう一本はステラの言ったとおり、かさかさに枯れていた。かつては鮮やかな深紅だっただろう花弁は赤茶に変わり、赤の美しさを引き立てる深緑の葉は全てしおれている。栄華が終わり、完全に衰退してしまっていた。
「この薔薇さ、この前摘もうとして止めたやつかもしれない」
 唐突に、ランシュがつぶやいた。
「どういう意味?」
 不思議そうなステラに、ランシュは何も言わずに薔薇を見つめ続けた。薔薇の見分けなどつかない。ただの勘違いかもしれない。そうは思いつつも、ランシュの中に言いようのない確信があった。
 あの時、ほかのどの薔薇よりも美しく咲いていた。摘んでしまうのが勿体なかった。そのまま美しく咲き、そして華やかに散って欲しかったから。
 地面に横たわる薔薇に自分が望んだような華やかさはないけれど。赤茶けたその姿には不思議な気高さがあった。
 己の意思を貫いた者だけに許された、神秘的な気高さが。
 この薔薇は枯れた今でなお、ほかのどの花よりも美しかった。
「ランシュ。この薔薇、花瓶に飾ってあげましょうよ」
 ふと思いついたようにステラが言った。
「きっと最後の花びらが散る瞬間までこの薔薇は美しいわ。良いでしょう?」
 もちろんランシュに断る理由などない。

UP:2006/02/08