神さびたアリスの狂想

※作中でアリス症候群と出てきますが、実際の症状とはまったく違います。
他意はございませんので、ご了承下さい。





はらり、はらり。
 地上に降りた先に待つのが消滅と知りながらも。
 はらり、はらり。
 雪は舞い散る。
 はらり、はらり、……。
 

 はら……



 あたしはアリス。もちろん本名じゃないけれど、あたしの名前は昭和初期って雰囲気満載でダサいんだもの。名付けた親を恨むわよ。それに引きかえ、アリスって、可愛くって可憐な乙女って感じがするでしょう? 大好きな名前なの。ルイス・キャロルの「不思議な国のアリス」と「鏡の国のアリス」はもう何度読んだか分からないわ。
 純白で調えられた部屋の天井を見つめて、いつも不思議の国を思い浮かべるのよ。三月ウサギ、帽子屋、ハートの女王様……現実のあたしはベッドから動けないけれど、空想では飛ぶも走るも自由自在なの。ああ、嬉しい楽しい。
「アリス、入っていいかしら?」
 無機質なノックの音があたしの空想を霧の向こうへ隠した。現実に立ち返るのはいつも唐突。たいていは不快なそれも、今この瞬間は違う。
 午後一時。几帳面な姉様はいつも必ずこの時間にやって来る。あたしの大好きな大好きな姉様。ノックの音に乗せて、もう一度「アリス?」と問いかける声。姉様はあたしがアリスと呼ばれるのが好きだと知ったときから、ずっとアリスと呼んでくれているの。理解ある姉を持って、あたしは何て幸せな妹なのかしら。
「どうぞ、お入りになって!」
 中世の貴族の娘みたいな言葉が、すんなりと飛び出してくる。だってあたしはアリスだもの。はしたない言葉は使えないわ。
「今日も元気ね、アリスは」
「姉様も。今日は寒かったでしょう?」
 あたしはベッドの横にある窓に目をやる。外は一面の雪化粧。昨日の晩からずっと降っているの。まるで幻想世界のような景色。
 もう数ヶ月前になるけれど、この静かな世界に土足で足を踏み入れてきた人たちが居たの。雪は降っていなかったのだけれど、それでもここはとても静か。ものすごく不愉快だったわ。お医者様に説得されて数時間後には帰っていったのがせめてもの救いね。
「そうね。でも早ければ今日から晴れるそうよ。徐々に融けていくって、テレビが言ってたわ」
 姉様は優美に笑った。雪のように白い肌。純白の部屋にくっきりとしたコントラストを描き出す、流れる黒髪。
 世界はこんなにも美しいのに。
 どうして……。
「テレビ、つけてもいい?」
 姉様の言葉にハッとなる。思考に沈みかけていたあたしは慌てて「もちろんよ」と笑顔を返した。姉様はあたしのベッドの脇に腰掛けて、スイッチを入れた。テレビもリモコンも読みかけの本も、全てあたしの手の届く範囲にある。……逆に言えば、あたしの世界は手の届く範囲だけなのだけれど。
「見て、面白い番組がやっているわ」
「アリス……症候群?」
 番組の右上に「新たな現代病? アリス症候群の実態」とある。病気なんだから歓迎されるような話題じゃないわよね。なんだかあたしが馬鹿にされているみたいであまりいい気持ちはしないわ。でも姉様は興味津々といった様子でテレビを見ているから、あたしは何も言わなかった。大好きな姉様の楽しみを邪魔するのだけは耐えられない。
「どんな病気なんですって?」
 あたしは何とはなしに尋ねてみた。姉様は少しの間テレビに耳を傾け、言った。
「……ピーターパン症候群みたいなものね。いつまでも少女のままで居たい、っていう心理が過度に働いた状態だって。アリスっていうのは少女の比喩みたいね」
「ふうん……」
「話題にならなかっただけで、何十年も前からこういった症例は報告されていたみたいよ」
 姉様はやや顔を伏せた。
 テレビではモザイクに隠れたおじさんがスタジオに現れ、切々と身の上を語っていた。何でも、今年二十歳を迎えた大学生の娘さんが鏡に映った自分の姿を見てヒステリーを起こすんだそうよ。「こんなの私じゃない!」とね。画面に浮かび上がる写真では、確かに少女と呼ぶには歳を取っているけれど、それでも可愛らしい笑顔を湛えた女性がピースを向けていた。
「なんて愚かなのかしら。ねぇ、そう思いません? 姉様」
 姉様はテレビを見ていた首をぎこちなくあたしへ向けて「そうね」と頷いた。
 外の雪はその勢いを徐々に弱めている。もうすぐで止むのは明白だ。栄華のときは過ぎ去り、残された道は衰退を甘受することのみ。ああ、なんて……なんて儚い。 古代の日本人が桜に心乱されたように、あたしの心も刻々と滅びのときを迎える雪に狂わされていく。
「人間はいずれ老いるのよ。老いも死も避けられない事実だというのに、なぜその現実から目をそらすのかしら」
 姉様は再び「そうね、アリス」と相槌を打った。その表情はどこか暗い。
「まあ、見て下さいな。症状が悪化すると、どんなに歳を取っても自分を少女だと思い込んでしまうんですって。ヒステリーはなくなるみたいだけれど……開いた口が塞がらないわ」
 さっき紹介されてた人は初期段階ということなのね。
 あたしはおおげさに肩をすくめてみせた。姉様は無言のまま。
 テレビの司会者だけが無遠慮に声を発する空間。気まずい空気から逃げるように姉様は口を開いた。
「アリス、見て、太陽が出てきたわ」
 ベッドから降りた姉様は窓を開け放ち空を見上げる。冷たい外気が頬をなでた。空を覆っていた暗澹たる雲はどこかへ逃げ、出番を待ちわびていた太陽が燦々と輝いていた。 力強い生命の象徴は、地上は照らせてもあたしの心には響かない。そう、永遠に。
 ――ああ、ああ、雪が融けていく。あたしの美しい幻想世界が。跡形もなく。
「アリス。雪はやがて消えてなくなるのよ。怖がらないで」
 まるで心を読んだかのようなタイミング。姉様はいちいちあたしの名を呼んで言葉を紡いでいく。囁くように、歌うように。草木に命を吹きかける春の女神のように優しく、穏やかに。
 再び沈黙が降りる。「末期のアリス症候群患者が回復したという報告は一件だけで……」テレビは相変わらず流れ続けている。「我々は取材を……拒否……」あたしは無意識に耳を傾けていた。
 一呼吸置いて姉様は口を開く。
「その後を飾るのは美しい花々。春の景色はあなたも好きでしょう?」
「ええ、大好きよ。でも今は雪が良いの」
 あたしはシーツを握り締める。病的なまでに細い指が白のシーツに食い込み、そして飲み込まれていく。……あたしの指はこんなに皺が刻まれていたかしら? あたしは怖くなって首を横に振った。
「そんなことよりも、姉様。明日は姉様の誕生日ではなくって?」
 あたしはむりやり話題を変えた。でも昂るこの鼓動を抑えられない。
 姉様は困ったように笑い、今年で××歳になるわね、と呟いた。
 ――後になって思い返してみると、何歳と言ったのか、そこだけあたしの記憶からすっぽりと欠落して憶えていないけれど。
「明日は盛大にお祝いしましょう。真っ赤な薔薇を頼んでおこうかしら。きっと姉様によく似合うわ」
 浮かれるあたしとは正反対に、姉様は先程までと変わらず困った笑顔のままあたしを見つめ続けている。
「アリス」
 姉様が呼ぶ。あたしの名を。あたしがあたしで在るための、名を。
「いいえ、アリスではないわね」
 今度はあたしが困る番。姉様が何を言おうとしているのか、はっきり理解してしまったから。
 やめて、やめてやめてやめて。呼ばないで。あたし以外を、呼ばないで。
 やめ……
「――」
 その瞬間、あたしの世界は弾けた。



「どうでした、今日は?」
 姉様……いえ、姉さんが帰って数分後、主治医が顔を出した。
「明日、××歳の誕生日と言っていましたよ。まだ全然回復しそうにないですね」
「まああなたが回復したのも奇跡のようなものでしたから、気長に待ちましょう」
 主治医はイスを引き寄せてベッドの脇に座った。
「主人と話していたら治ったんでしたっけ、『私』は」
 もう私はあたしではなく、私だ。
 狂想にまみれたアリスは現実に戻ってきたのだ。
「姉さんも旦那が生きていれば良かったのに。きっと私が相手をするより確実でしたよ」
 視界の端にとらえた外では雪はすっかりやんでいた。私が回復したのもこんな日だったそうだ。その恩人である主人だってもう居ない。 この世界のなんと色のないことか。私はたまに主人を思い出しては、その影を求めて視線を彷徨わせる。
「先生が前に録画した『アリス症候群』のあの特集を今日も見ていましたけど、相変わらず私が症候群患者だと思っているようです」
 姉さんの症状はどんどん悪化しているように思う。でもそんな姉さんと話しているのは全然苦痛ではない。
「次はもう少し、あなたから突っ込んでみてください。あんまり荒療治が過ぎると心が壊れてしまいかねませんから、本当に少しでお願いしますね」
 では今日の診察を始めましょうか、と聴診器を取り出した。あと一時間もすればお孫さんたちがやって来ますよ、と付け加えて。
「ええ、そうですね」
 私は頷いて、今度はしっかりと外を見つめた。
 太陽は輝き、『あたし』の幻想世界をゆっくりと流していく。――そして、『あたし』自身も。
 私はまた偽りのお茶会に興じて、三月のウサギのように現実を喰らい尽くすのだ。
 
 この身はすでに神さびているけれど。
 この心はいつまでもあおいまま。

 一度不思議の国を知ってしまったアリス――あたしは、永久にその国を夢見るのよ。愚かな夢追い人はもう決して完全には現実に帰ってこない。
 ――ああ。
 私は声なく嘆息する。
 しばらく、さようなら。
 また雪の舞い散ると共に。


 
 はらり、はらり、……

 はら………………り。

UP:2006/05/28