螺旋の先

「有難うございましたー」
 会計を済ませた客が出て行くのを見送り、ため息をつく。
 これで店内に客は居なくなった。食品の在庫でもチェックしておくか。
 疲れた目をこすって時計を見る。午前零時一分。ああ、もう日付が変わったのか。今日も車で寝る羽目になりそうだ。忙しいんだから仕方ないな。
 発注書を取り出してくる。深夜バイトの大石くんが眠たそうにバッシングしていた。目立つ金髪と長身で、どこぞのホストみたいな男だ。
 同士(といっても三十路過ぎのおっさんと大学生だが)よ、二十四時間営業の飲食店も楽じゃないな。
 時計を見る。零時三分。時が経つのは遅い。
「てんちょー」
 カラの皿を片手に、大石くんが俺を呼び止めた。
「なんだ?」
「おでこ、前より広くなってません?」
 黙れ。無視して在庫チェックに取り掛かった。備品もいくつかないようだ。俺は神がかり的なスピードで作業を進めていく。
「てんちょー」
 ウォッシャーを操作し終えて、彼がまた俺を呼び止める。
「今度はなんだ?」
「雨降ってますよ。激しくなる前に帰りたいっす」
 却下。ただでさえ人手不足なんだ、わがまま言うんじゃない。俺なんかもう勤務時間十二時間なんだぞ。早朝に来てもらえるように拝み倒したバイトと入れ替わりで抜けることになっているが、この時間が異様に長く感じられる。
「あーあ、傘持ってきてねー……」
 くだらない戯言に付き合いながらも、一通りの発注を終えた。その最後に、何度目か分からない「増員について」と題した書類を本社へ流した。



「ただいま……」
 結局、俺が帰宅したのは翌日の深夜だった。車で仮眠を取った後、また出勤したのだ。お陰で勤怠簿が凄いことになっている。
 家はしんと静まり返っており、家族からの返事はなかった。帰ってくるかも分からない夫を待つのも楽じゃないのだろう。
 小学生になったばかりの息子は言わずもがな。起きていたら叱る場面だ。
 擦り切れた腕時計に視線をやる。午前一時を示していた。
「……俺も寝るか」
 服を脱ぎ散らかして、ふかふかの布団に潜り込んだ。妻とは数ヶ月前から別室。決して仲が悪い訳ではなく、一人で寝た方が疲れも取れるだろうという彼女なりの気遣いだ。
 中途で入社して三年目。店長になって一年。子どもの顔も満足に見ることの出来ない生活が続いている。入学式にも参加できなかった。
 店長は管理職扱い。残業代は出ない。平社員時代よりも手取額は減っているのだから、一体何のために働いているのか分からなくなるときがある。それでも、俺が仕事を辞めたら一家は路頭に迷ってしまう。ここで挫けるわけにはいかないのだ。
 壁にかけた時計を見上げる。ベッドに潜ってから五分ほどが経過していた。
 出来ることなら楽しい夢が見たい。そう思いながら、俺は眠りに落ちていった。



「あなた、今日も遅いの?」
 朝食を運んできた妻が問いかける。
「帰って来られても深夜かな」
 久しぶりに妻と一緒の朝食だ。日本人らしく白米に味噌汁、そしてたまご焼き。素晴らしい。
「どうしても今日中には帰ってこられない? 他に人は居ないの?」
 普段だったらそこでこの話は終わるのだが、今日に限って妻が食い下がってきた。人手が足りていたら、俺がここまで出勤することもないんだよ。俺だってこんなに入りたくはないんだ。
 まあ、これでも、夏休みに入った大学生が頑張ってくれてるから多少はマシなんだが……また本社へ増員の要請を出してみるか。現状維持だとか、まったくこっちの状況を分かってくれないのが腹立たしい。
 テレビの時計が八時を示す。ニュース番組のオープニングが始まった。こうして朝のニュースを落ち着いて眺めるのも久しぶりな気がするな。
「多分ムリだなぁ。俺も定時で帰ってきたいんだけどさ」
 肩をすくめて見せて、この話は終わった。「そう……」と残念そうな妻の顔に、心が痛む。
 味噌汁を飲み干す。胃に温かさが沁み渡った。
「あ、お父さん!」
 味噌汁のお椀を置いたと同時に、息子の拓海がリビングに入ってきた。俺の隣に座る拓海はまだ寝ぼけ眼だったが、にこにこと学校のことを話し始めた。久しぶりの会話に、「そうかそうか」と相槌を打つ声も弾む。
「ねぇお父さん。今日の夜はいるの?」
 話が一区切りついたところで、拓海が首を傾げて尋ねてきた。妻のときと同じ返事をする。
「じゃあ、僕まってるね!」
「こらこら、子どもは寝てる時間だよ」
 帰って来られる確証もないしな。
 ちらっと腕時計に目をやると、八時半を少し過ぎた頃だった。そろそろ出ないとまずい。
「それじゃあお父さんは仕事に行って来るよ。拓海、ちゃんと寝てるんだぞ」
「えー」
 口を尖らす拓海の頭を最後にもう一度撫でて、俺は家を出た。



 強い日差しが頭皮を焼く。また大石くんに何か言われちまうよ、これじゃあ。あの子は暇なのか今回のシフトはかなり入ってくれており、こちらとしても助かっている。あの無遠慮な口さえ何とかなれば、もう言うことなしなんだが。
 蒸し風呂のような車に乗り込んで、俺はゆらゆらと店へ向かった。汗が吹き出す。デジタルの文字盤は八時四十分を示している。
 ああ、憂鬱な時間が近づいてくる。流れる景色が線となり壁をつくって、俺をまっすぐまっすぐ、決してそれないように進ませるのだ。
 店が見えてきた。九時七分前。駐車場に車は数台。
 従業員専用駐車スペースに車を停め、裏口から入店した。この頃連勤の大石くんが「おはよーございます、てんちょー!」と妙なハイテンションで挨拶してきた。なんでこんなに元気なんだ。「おはよう」俺はそれにローテンションで返す。
 タイムカードを切ると、九時三分前。さて、今日は何時に帰れるのやら。
 慣れたもので、数分で身支度を終えて店内へ繰り出していった。
「いらっしゃいませ!」
 おいでませ、気だるい時間。
 いかにも、これからレジャーですと言わんばかりの客が多い。小さな子どもの笑い声が店内に響いていた。ここは地雷原か。
 拓海は何をしているのか。
(……本当に何してるんだろう……)
 愕然とした。あの子が休日をどう過ごすのか、まるで検討がつかないのだ。友達と外で遊ぶのか、室内でテレビゲームをするのか、それとも勉強してるのか……。
「店長、オーダーお願いします。八番です」
「あ、ああ……かしこまりました」
 ハンディを開きながら行くと、家族連れのテーブルだった。子どもは拓海と同じくらいか。活発そうな男の子だ。
「お待たせ致しました。ご注文承ります」
 手早くオーダーを受けていく。
 家族で遠出か……ここの勤務になってからは一度もないな。今週も来週も俺のシフトはぎっしりだから、余裕もない。
(俺は忙しいから、仕方ない。家族が暮らしていくためには……仕方ないんだ)
 むりやりに納得させて、厨房へ下がった。
「新規オーダー頂きました」
「かしこまりましたぁ!」
 威勢の良い決まり文句が返ってくる。大石くんがさっそく調理に取り掛かっていた。勤務態度からは想像しにくいが、彼はホールもキッチンもこなすベテランアルバイトだ。俺が来るずっと前からこの店に勤務してるため、もう第二の店長みたいなものだった。
「そういえば店長」
 並んで調理する俺に、大石くんがにこやかに尋ねてきた。
「もう小学校も夏休みっすよね? どっか遊びに行かないんすか?」
 地雷が、爆発した。



 今日はずっと忙しく、予定よりも三時間ほどオーバーしての退社となった。本日の勤務時間は……考えたくない、疲れた。死ぬ。もはや時計の文字盤もぼんやりとしか見えない。
 空は真っ暗で、夏とはいえ涼しい風が肌を撫でていく。
 明日の朝も早いから車で寝ても良かったのだが、気づいたら俺は車を走らせていた。
『今日も遅いの?』『じゃあ、僕まってるね!』……妻と息子の言葉がリフレインしている。車内に飾った色あせた写真が、語りかけてきているようだった。
 拓海が幼稚園に通っていた頃に撮った、家族旅行の写真だ。これもちょうど今くらいの時期だったか。太陽と笑顔が眩しい。
 このままでは思い出まで色あせてしまいそうで、なんだか怖くなってくる。
 やがて家に到着し、近所迷惑にならないよう静かに駐車する。街灯に照らされた道は静かに伸び、家々を不気味に浮かび上がらせていた。
 俺の家も例外ではない。
 霞がかったように、薄ぼんやりとした家の輪郭が闇と同化していた。闇がしがみ付いているような、こちらが闇に擦り寄っているような、奇妙な感覚だ。
「ただいま……って、寝てるよな」
 自虐的な呟きに、しかし答える声があった。
「お帰りなさい、やっぱり遅かったわね」
 玄関の明かりが灯される。俺は驚きのあまり目が点になった。靴を脱ぐ手も止まる。
 こうして妻が出迎えてくれたことは、店長になってから皆無と言って良かった。俺が家に帰ってこなかったし、妻は妻で仕事がある。
「どうし……た?」
 疲労も手伝って、頭が回らない。間抜けな声で問い返すだけだった。
「あら。忘れちゃったの?」
 呆れたような苦笑。しかし次の瞬間にはにっこりと微笑みを作って、
「少し過ぎちゃったけど……お誕生日おめでとう、あなた」
「あ……」
 ハッとなる。そうだ。生活のあまりのアレさに忘れていたが、今日(いや、昨日か)は俺の誕生日だ。
「年に一度の、自分のためのお祝い事じゃない。言うなれば、自分のお祭りよ、お、ま、つ、り。嬉しくない歳だからって、忘れちゃうのはねぇ……」
「何言ってんだよ、俺はまだ若いって」
 軽口を叩くものの、内心は……そりゃ嬉しかった。自分でも忘れてた記念日だけど、いや、だからこそ妻が覚えてくれていたのが、本当に。
 けど、同時に申し訳なくも思う。
「あ、じゃあ拓海もそれで」
「ええ。起きてるって聞かなかったんだから。もう寝ちゃったけど」
 肩をすくめてみせる。「それより、とりあえず上がったら?」という妻の指摘に、ようやく靴を脱ぎかけだったことを思い出した。
 いつもは自分の部屋に直行して寝るだけだが、今日は拓海の部屋をこっそり覗いてみた。妻は黙ってついてくる。
「よく寝てるなぁ」
 カーテンの隙間から漏れ零れる光が、うっすらと部屋を照らす。
 拓海は小さなベッドに行儀悪く収まっている。布団を直してやりながら、自然と笑顔が浮かんできた。天使のような寝顔ってのは、本当だな。
「あなた、机」
 ぼそぼそと囁く妻の声に促されて、俺はすっと視線をずらした。新品の机には、不器用なリボンが結ばれた何かが置いてあった。
「なんだ、これ」
 そっと持ち上げて、目覚まし時計だと気づく。しかもこれ、拓海のやつじゃないか。
「ん? 何かあるな」
 文字盤の前に、紙が挟まっていた。一度リビングへ行って、中身を見てみる。
「何て書いてあったの?」
 急かす妻に聞かせるように、たどたどしい文面を読み上げた。
『おとうさんへ。おたんじょうびおめでとう。おとうさんのとけいはボロボロだから、ぼくのをあげるね。またあそびにいこうね。たくみ』
 読み終えて……俺は言葉もなく俯いた。俺の腕時計は確かに年季入ってて、いつブチッといってもおかしくないシロモノだ。
 それを拓海が知っていて、なおかつ俺に愛用の目覚ましを贈ろうと思った事実が……妙にショックだったのだ。それほどまでに俺の目線は、時計に行っていたのか。
「あなた……」
 妻も、言葉を探すように口を開いたり閉じたりしている。
「なぁ」
 手紙を丁寧に畳んで、妻を見据える。
「今度、みんなで遊びに行こう」
「え、でも仕事は……」
 驚き顔の妻。言いたいことは分かるが、良いんだ。俺はもう決めた。
「大石くんっていうベテランが居るから、彼に出てもらえるよう交渉するよ」
 有休も余ってるし、こういうときこそ使わないとな。上司が何と言おうと、使ってやるぞ。こじれたら労基署に駆け込む覚悟もある。俺は本気だぞ。
「そう……あの子も喜ぶわ」
 妻がふわりと笑った。俺もつられる。
 遊びに行ったら、写真を撮ろう。
 色鮮やかな一枚を。

UP:2008/08/08