想いに支えられし現世

 恋をした。もう随分と昔の話だ。

 俺は旅の楽士をやっているが、後にも先にも、あんなに優美で華麗な踊りをする女には会っていない。
 その女と出会う前も、惚れた女は数多く居た。彼女はその誰よりも生き生きとしていた。瞳が宝石のように輝いていたのだ。
『ちょっと、あんた。楽士かい?』
 酒場で独り酒を飲んでいると、低い、けれど耳に心地よい声に呼ばれた。あんな雑多な店内でよく俺の楽器を目に留めたものだと正直驚いたが、今ではその数奇な幸運に感謝している。
『何か演奏してよ。あたし、踊るからさ』
 彼女は軽くステップを踏んでみせ、『いいだろ?』と少し首を傾げた。特に断る理由もなく、俺は演奏を始めた。
 細身の体でするりするりと客の間を縫うように踊り、しかし決して損なわれない典雅。
 指先のしなやかさも軽やかな足取りも、全てが芸術だった。それが俺の曲に合わせて紡がれる踊りだなどとは、にわかに信じられない程に、他者を惹きつけて放さない魅力がそこには在った。
 酒場で飲んだくれていた男達も自然と声を潜めていき、彼女の踊りに見入っている。普段は喧騒しかない酒場に静寂が訪れ、俺の奏でる音色が浸透していくのは、気持ちが良かった。
 やがて曲は終わり、彼女が一礼すると観衆から大きな拍手が起こった。『よかったよ姉ちゃん!』『もう一回踊ってくれよ!』――曲を提供した俺に向けられた拍手も歓声もないけれど、俺は構わなかったのだ。
 彼女は請われるままにもう一度踊ることになり、俺に視線を送ってきた。
 軽く手を上げて、俺は二曲目を奏でる――

 彼女は決して美人ではなかった。体つきは踊り子としてまたは女として申し分なかったが、その上に乗っている顔はどう贔屓目に見ても「まあ、愛嬌はある」程度のものだった。物凄くちぐはぐした女だったのだ。
 それでも俺は、恋をした。
 その黒髪に、浅黒い肌に、真っ赤な唇に、そして何よりも、俺を見つめる大きな翡翠色の瞳に。
『あんた良い腕してるじゃない。こんなに気持ちよく踊れたのは久しぶりよ』
『お前こそ凄いじゃないか。あんな踊りは初めてだ』
 褒めると女は照れくさそうに笑い、『あたしはしばらくここに居るよ』と店を出て行った。それは俺を誘ったのか、ただの気まぐれだったのか、それは分からないが俺は翌日も導かれるように酒場へと足を運んだ。泊まっている宿からそう離れていない場所だ。すぐに着く。色のはげかけたドアの前で逸る心臓を宥め、なるべく平静を装って店内へと入った。果たして、踊り子の女は、そこに居た。テーブルの一つを陣取って、ちびちびと酒を飲んでいる。同じ席には数人の男が居たが、彼女は俺に気づくとさっさと席を立って近づいてきた。それだけで、さっき落ち着かせたはずの心臓が暴れだそうとする。
『来てくれたんだね、待ってたよ!』
 屈託のない笑顔を見せると、女は曲をせがんだ。俺は心に吹き荒れる嵐を悟られまいとして、彼女から少し離れてイスに座り、弦に指をかける。俺たちに気づいた連中から徐々に沈黙の輪が広がり、一分も経たないうちに店は静寂に満たされた。
 旋律が空気を震わせる。女が天使の翼のように腕を伸ばす。彼女が動くたびに身につけたアクセサリーがきゃらきゃらと高い音を立てた。その音すらも、音楽の一部であるかのように女の踊りを引き立てた。
『今日も冴えてるわね。良い感じだわ』
 終わった後にかけられるその言葉が、俺にとっては何よりの喝采だった。

 それから数日、俺は名前すら知らない女と酒場で落ち合い続けた。名前など気にならなかったのだ。そんなのはほんの些細なことだと思える程の、幸せな時間がそこにはあったのだから。俺は心地よい日常にこのまま身を浸していたかった。しかし、旅をやめて街に留まることさえ考えていたある日、彼女は初めて俺の泊まる部屋までやってきて、打ち明けた。
『あたしさ、明日……この街を出るんだよ』
 話によると、彼女は街から街へと旅する一座の一人らしい。その一座が明日、次の街へ向かうと言うのだ。
 俺は引き止めたかったが、何も言葉にならなかった。息が詰まるとはこのことだ。
『……』
 何かを期待するような彼女の翡翠に見つめられて、俺は彼女の華奢な体を抱きしめた。彼女もそれに応えてくれた。

『そうだ……これ、あげるよ』
 ベッドから上体を起こして、女が何かを差し出した。窓から差し込む淡い月明かりに照らされて浮かび上がっているのは――
『ペンダント?』
 女は頷き、同じく起き上がった俺の首に紐を通した。女の瞳と同じ色をした石が揺れる。
『飾りはエメラルドの偽物だけど綺麗だろ?』
 地肌に当たる石は、彼女の体温が移っているらしく温かかった。女は『似合ってるよ』と笑みを浮かべ、俺の首に腕を引っ掛けて再びベッドに寝転んだ。不意打ちに、俺も勢いよく枕へと頭を埋める。
『あはは、いい男が変な顔をするんじゃないよ』
 女はひとしきり笑った後、ふいに尋ねてきた。
『エメラルドの石言葉、知ってるかい?』
 俺が首を振ると、女は得意気に言った。
『それはね――……』



 もう十年以上も前の話だ。その後彼女とは一度も会っていない。まるで夢だったかのように、時間だけが過ぎ去っていくのだ。首で揺れるペンダントだけが、彼女との思い出を現実に引き止めている。俺たち二人が出会ったという証はたったそれだけだ。このペンダントだけが、俺の想いが現実のものだと、決して夢ではなかったと、囁いてくれる。
 あれ以来、俺は誰も愛していない。愛せないのだ。あの女の瞳も声も踊りも、何もかもが忘れられなくて、もうどんな女を見ても俺の心が動くことはなかった。
 しかしそれは全然、嫌ではなかった。むしろ心地よいくらいだった。
「懐かしいな……あまり変わってない」
 俺は懐かしさに浸りながら、彼女と初めて出会った酒場に来ていた。
 俺も歳を取った。女との思い出に縋って楽器は未だに手放せずに居たが、そろそろ潮時かもしれない。ここで一曲奏でて、すっぱり楽器はやめよう。俺は固く決心して、すっかり色のはげたドアをくぐった。
 雑多な店内、時間のせいか決して多くはない客。見回していると、客の一人に視線が釘付けになった。
「まさか……」
 長い黒髪、浅黒い肌、そして踊り子の衣装。背を向けているため顔は分からないが、あれは、あれはまさか……
 一歩一歩、雲の上を歩いているかのような不思議な心地で近づいていく。あと少しで腕が届く、という距離になって初めて女がこちらを振り向いた。
「はぁい、私に用?」
「あ、いや……」
 俺を見上げる顔は、しかしあの女ではなかった。彼女よりずっと幼い。まだ十代半ばといったところだろう。
 決して美人とは言えないが愛嬌のある顔に行儀よく収まっている瞳は翡翠ではなく、紺碧――俺と同じ、紺碧の瞳だった。
「あ、もしかして楽器弾けるの? 一曲お願い、私踊るからさ!」
 少し低いが耳によく馴染む声音。少女は俺の腕を取り、「ね?」と首を傾げてみせる。そんな動作もいちいち、あの女と重なって――
 ああ、なんだ、俺はちゃんと証を――
「そういえば、エメラルドの石言葉は」
「“幸運”と“新たな出会い”だよ」
 引き継がれた言葉に後ろを振り向けば、今度こそそこには、求めた姿があった。もう踊り子の衣装は纏っていないが、あのちぐはぐした翡翠の女が、悠然と微笑んでいた。

 ――楽器を置くのはもう少し、先にしよう。

タイトルはPSゲーム「ヴァルキリープロファイル」の曲名より

UP:2007/04/10