楽譜

「ここよ、私はここにいるわ」
 声は空を震わすには至らず、ただ冷たい雨によって大地へと落とされる。


「あなた、まだ仕事してんの? 昨日からぶっ通しじゃない」
「ええ。好きなんだもの」
 ピアノから顔を上げた私を、友人は呆れたように見下ろした。グランドピアノを中心に据えた私の作業部屋は、誰かが来るとその広さやけに目立ってしまう。ちっぽけな二人が、余計に小さく見えてしまって。
「でも今度は曲だけじゃないのよ。なんと、歌詞までついてまーす」
「小学生のときの読書感想文を『面白かった』の一言で終わらせたあんたが? 明日は季節はずれの大雪だわ」
 大げさに首を振る友人を、半眼でにらみつけてやる。もう二十年以上の付き合いのせいか、軽く受け流されたけど。
「茶化さないでよ。私は大真面目なんだから」
「はいはい、分かってるわよ。それで? 文才を神様から貰い忘れたあなたがどんな歌を書いたのか、親友様に見せてごらんなさい」
 言うが否や、私の手から楽譜を取り上げる。取り返そうとした手はあっさりかわされて、むなしく空を切る。たまに漏らされる「へぇ」とか「ほー」とか変な声に心臓を撫でられるような緊張感を強いられながら、友人が読み終わるのを待った。
「なるほどねぇ……やっぱ彼から連絡はないの?」
 返された楽譜が手の中でくたりと反れて、ゆがむ。ぐにゃぐにゃの表面に描かれた音符が不協和音を奏でているようで、私は思わず顔をしかめた。
「まったくもって音信不通。手紙の返事もよこしやしないし、そういえば私、あいつの電話番号も知らないし!」
 あー、思い出したら腹立ってきた。憤る私の肩を、友人が慰めるようにたたく。
「海外での生活に慣れるのと、勉強に必死なのよ。多分」
「多分って言ったわね!?」
 彼が外国へ行って半年。最後の連絡は「行ってきます」のメール一通。あのズボラな性格だけでも直してから行ってほしかったわね。
「もう知らないわよ。あと七ヶ月待って連絡来なかったら、振ってやるんだから」
「またまた、強がっちゃって……あ、これって映画に使う曲よね?」
「そうだけど」
 そうそう、実は凄いのよ。海外でも公開が決まってる映画で、なんで私に仕事が回ってきたのか不思議だったんだけど……チャンスは活かさなきゃね。
「七ヶ月ねー。これ、彼の国で公開されるのは半年後よね。ま、あなたからのメッセージに気づいてくれるといいね」
「なによ、これは映画のヒロインの心情を歌った……」
「そういうことにしとくわよ」
 にひひ、と笑った友人は、「それじゃあ頑張って」と気の抜けた応援だけを残して去っていった。

『ここよ、私はここにいるわ。あなたをずっと待ち続けて空を見上げているのよ』

 これは映画の見せ場で使うのであって、だから決して私がとかじゃなくて……って、どうして私が言い訳しなきゃいけないのよ!
 思わず叩いた鍵盤が、横暴を抗議するかのように甲高く鳴った。

UP:2009/11/08