虚構の祈り

『狂えるは罪か』

 ――それは、傾いた屋敷に打ち捨てられた日記。あるいは懺悔の記録。


 私は、月の白き光さえ白濁して見えるこの世界に、我慢が出来なかったのです。
 生のグロテスクさばかりが際立ち、私の双眸は否が応にもそれらを認識してしまいます。生きるている限りどうにもならない生理的欲求の数々。それらの生々しさが、どうにも受け付けられませんでした。物心ついた頃から強烈な違和感の中に生き続けた私は、けれど私自身もまたそのグロテスクな命のひとつであることも、分かっていました。
 人の双眸が穢れを映すのなら、偽りでも良いから美しい世界を、それだけを見据えて微笑む存在が欲しかったのです。偽りの瞳に映る世界はきっと美しいものだと、私は信じているのです。
 ただ彼女に、この世界は美しいと言って欲しいのです。無垢な笑顔で一点の汚れも疑いもない、純粋な一言が欲しいのです。
 人形に魂を籠めることなど出来はしないと分かっていたのに、私の憧憬は妄念と成り果てながらも、執拗に執拗に、私を人形創りへと導くのです。私の足元には失敗作が、屍のように横たわっています。
 それでも私は、やり遂げたのです。
 神よ、御赦し下さい。私はとても薄汚い。神の御慈悲に縋るなど今更と思われるかもしれません。神への冒涜だと、全能なる神への反逆だと、そう捉えられても仕方の無いことを私はしてしまったのですから。
 創造は神に許された行為。私は最も尊いあなたの領分を穢してしまった。
 そして――私の罪は留まることを知りません。
 私は彼女を……。嗚呼、御赦し下さい……私の最高傑作である人形を愛してしまったのです。彼女を人形と形容することに耐え難い苦痛を感じる程に、私の心は彼女に堕ちてしまいました。
 流れる金糸、白磁の肌、細い肢体――そして何よりも、私を見上げる無垢な瞳。私が求め続けた偽りの双眸です。この純粋さが私を惹きつけてやまないのです。
『ああ、ああぁ……あぁ、あ――』
 まだこのように意味を成さない声しか発しませんが、彼女は確かに命を得たのです。透明な瞳で見る偽りの世界。どんなに彩鮮やかで、美しいのでしょう!
 もうすぐです、もうすぐなのです。彼女の口から言葉が零れる時、私の執着は成就するでしょう。

 神よ、私は人としての道を見失ってしまいました。この狂える愛の前には、今あなたに捧げる懺悔のなんと色褪せたことか。
 ――枯れ果てた男の最後の悪足掻きとわらって下さい。彼女をマリアと、聖母と呼ぶ私の浅ましさを蔑んで下さい。
 嗚呼でも、お優しい慈悲深き神よ。あなたはきっと、私のようなさもしい男でさえも憐れんで下さるのでしょう。それを期待しそれに甘えている私は、なんと汚らわしいのか。
 闇も冒しきれない私の愚かさを、どうか、どうか――




『執着の成れの果て』

 そこで日記は終わっていた。触ったそばから崩れていくような古いものだ。これだけ残っていただけでも奇跡に近い。
 割れた窓から風が吹き荒ぶ。金糸が虚空を踊った。
「お父様」
 父が白濁と称した月が浩々と輝く夜空。マリアの瞳から見ても世界は――汚れていた。
「お父様、私はどうすれば良いのですか?」
 寂しく死んでいった父の亡骸はもう骨と化している。答える声は当然ない。その頭蓋を抱いて、マリアは問い続ける。
「お父様、私はどうすれば良いのですか?」
 マリアが言葉を発するよりも前に、父は亡くなった。病んだ心に蝕まれた体。もともと長くはなかった。
 存在理由と価値を見失い、立つべき位置も進むべき道も分からぬまま、マリアは屋敷に留まり続ける。最早役目は果たせぬと知りながら、しかしそれ以外にすべきこともなく。いや――そもそも無理なのだ。役目を果たすなど。
 頭蓋を抱いたまま、場違いな微笑みを湛える。
 父はマリアに、微笑みを与えた。微笑みだけを。深く残酷な孤独に噎びたくとも、マリアにはその方法が分からない。
 だから笑う。父が望んだ微笑をせめて、絶やさずに居る。
「お父様、世界は美しい。世界は美しい。世界は美しい」
 ぎゅっと唇を噛む。
「とっても美しい世界。上手くいかない世界。あなたのいないせかい」
 たったひとつの嘘をつくために、私は生まれた。
 たったひとつの嘘をつかせるために、私を生んだ。
 そう、嘘なのだ。世界は美しくなんかない。一点の汚れも疑いもない純粋さなどない。むしろ汚れが満ちた一言しかマリアは持ち合わせていないのだ。
 父の望んだ価値を、しかしマリアは持ち得ない。
 絶対的な矛盾。それが胸を、ぎりぎりと締め付ける。
「美しい美しい美しい美しい美しい美しい美しい」
 嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘。
 風に乗って夜空を彷徨う言葉は、薄ら寒い空気を呼び込む。だんだんと声は裏返り、音波となって空気を震わしていく。
「――……――……――……――……――……!」
 使命と現実の狭間に漂って、マリアは徐々に病んでいく。
 父が籠めた魂。それは彼が全身全霊をかけて行ったが故に――彼の陰惨な狂気も闇も、何もかもがマリアに受け継がれた。
 この瞳が映すのは、父が見た世界そのもの。暗鬱な空がマリアを押しつぶさんばかりに広がっている。
 嗚呼、どうして――どうして貴方は、この瞳が映す世界は美しいと思ったの?
 妄念が形を得ただけの私を、どうして純粋だなんて言ったの?


 ――神よ、どうかお答え下さい。
 決して成就することのない執着は、ただ苦しいばかりです。
 これは罰なのですか? 父の愚劣な夢想に対する、怒りなのですか?
 私に道を示して。お父様。誰か。神様。誰でも良いの。
 お願い。




『夢を見るは壊れた人形』

 星々が瞬く夜。マリアは外に出ていた。
 屋敷を囲むのは、荒れ果てた庭。大地はむき出しで、雑草すらもまばらだ。世界の中でどうしてかこの一部分だけが死んでしまったかのようにも見えた。それもあながち間違ってはいないかもしれない。
 マリアは一角にしゃがみ込んで、無造作に穴を掘り始める。幾許も経たないうちに爪に土が入り込み、肌の白さは隠れ、衣服も泥だらけになった。
 湿った冷たい土。何も流れていないマリアの体よりも。
 もしこの光景を誰かが見たのなら、あまりの異様さに眉をひそめるか、あるいは信心深い者なら魔女だと喚いただろう。
 微笑を湛え一心不乱に土を掘る美女、折り重なった裸の死体――マリアの踏み台となった失敗作たち。
 それと同じ数だけの穴を作り終えると、丁寧に指を組ませてその中へ横たえていった。
 マリアは時折、こうして「姉」たちを葬る。彼女たちを憐れんでいるとか、いつまでも晒しているのは忍びないなどといった感情があるわけではない。
 死を散りばめ、包囲されていくことによって、自身にも終焉というものが訪れるのではないか――明確に意識しているわけではないが、そんな淡い期待が、根底にはあった。
 死が病のように伝染して、いつかこの身を蝕んでくれますように。
 永遠とは程遠い生しか持たない人間からしてみれば、それはおかしなことかもしれないが――マリアは、生まれることすらなかった「姉」たちが、羨ましかったのかもしれない。

「死」とはどんな気持ちですか? とても心地良いのでしょうか? それとも苦痛なのでしょうか? マリアはこの孤独以上の苦痛や恐怖を知りません。どちらが重いですか?
 意味を与えられながらも果たせない生と、意味すら与えられなかった死。どちらが不幸ですか? マリアは存在していて良いのですか? 誰か教えて、ください。

 最後の「姉」を土に還して、マリアは立ち上がる。汚れを払うこともなく、ただ夜空の月を眺めていた。




『嘘と知りながらも、求めた私は愚かでしょうか』

 森を抜けた先の廃屋に住む美女の噂が囁かれるようになったのは、つい最近だったように思う。それなのに、もう村中に知れ渡っているようだった。若い男連中は、その美女は果たしてどんな容姿なのかと想像しあい、互いの理想像を語り合っている。特に娯楽もない小さな寒村では、それも当然のことだろう。
 ディウスはあまり話の輪には入らなかったが、それでも噂の全容は知っている。全容とは言っても、たいして深い話でもない。廃屋の美女。そして、彼女を見た者は双眸を奪われるという――他愛のない恐怖話だ。
 好奇心から廃屋まで出向こうという話はいくつか耳にしたことはあるが、実際に誰かが向かったという話はない。
 もし本当だったらという恐怖もあるが、廃屋は遊びでふらりと行くには遠すぎた。そのため誰も確認しないまま、噂だけが一人歩きしている。
 しかしある日、森での狩り中に獲物を追い掛け回して随分奥まで来てしまった。それはちょうど、噂の屋敷のある辺り。ディウスは家族が心配するのを承知で、好奇心に導かれるまま森の奥へ奥へ――村とは反対側の出口に向かって歩を進めていった。噎せ返るような緑が消えて、雨の去った後のような、湿ったねっとりした空気が肌に張り付き、息を吸うたび肺を満たす。生温かさに顔をしかめて、けれどそれは刹那の間も置かずほうけた表情へと変わる。
(あれが、噂の――)
 視線の先には朽ちた館。屋根の一部分は完全に崩れ落ちて、辛うじて一階は使えそうだが、とても人が住めるような状態には見えなかった。周囲の土はなぜか草もほとんど生えておらず、そこだけなにか見えない境界線に隔たれているような――とにかく不気味だった。しかもその土のほとんどが、でこぼこと不自然に盛り上がっている。自然のものではなく、明らかに人の手が加えられた形だった。
 それはマリアがせっせと「姉」たちを埋めた結果なのだが、ディウスがそのようなことを知るはずもなく、ただ得体の知れない不気味さを増加させるだけだった。
 廃屋の美女。ここまで崩壊が進んでいると、その組み合わせはとても非現実的に思えてくる。
 しかし、そんなディウスの心情を裏切るかのように――玄関の重そうな扉がギィと開く。まず白い指が見え、黒いドレスが揺れ、金の髪が覗き――最後にこの世のものとは思えない、計算高く作り込まれた人形のような女の顔がディウスを見つめた。
 目を見開いて、まじまじと女の顔に見入る。これほどまでに美しい人間を、ディウスは知らない。上から下へ、何度も視線を動かす。目を奪われるということと引き換えにしても、構わないと、そう思えるだけの美貌を、女は宿していた。
 女がかすかに――それはそよぐ草のように柔らかな動作で――首をかしげた。ディウスははっとして、慌てて視線をずらした。
 美女は無言。ただ微笑んでいるということは、そんなに警戒心はないのだろうか――。しかし噂が事実であることに動揺し、非常に気まずくなって、頭をかく。「あ――その」とりあえず声を発してみたものの、継ぐべき言葉が見つからず結局口を閉じてしまう。
 瞳を奪う廃屋の美女。
 相手は突然の来訪者に驚く気配もなく、じろじろと見られたことに怒るでもなく、ただ微笑みかけてくるが、だからと言ってこちらに歩み寄ってきたり、声をかけるなどということはしてこない。
 ディウスの頬を一筋の汗が流れる。何もしてこない、という恐怖感。今更ながらにじわりじわりと背筋を這い上がってくる。
「あのう――」
 やがて、女が口を開いた。澄んではいるが、見知らぬ人に道を尋ねるときのような、初対面ゆえの気恥ずかしさのようなものを含んでいる。意外と普通の声で、逆にぎくりとする。
「世界は、美しいです……か?」
「は?」
「あなたの瞳が見る世界は、美しい、ですか?」
 微動だにしない女は、それきり黙ってしまい、ディウスの反応を窺っているかのようだった。
「世界は、まぁ……綺麗、かな?」
 意図は分からないが、特に否定する理由も見当たらなかった。自分の生きる世界を汚いと思うよりも――汚さをある程度は認識しつつも――綺麗だと前向きにとらえて生きていたい。ディウスの回答にはそんな願望も含まれていた。
「本当ですか? なら――」
 笑みが深まった。しかしそれは、晴れ渡るような笑顔ではなくもっと別の、薄暗い何かが渦巻いている、毒のような笑顔だった。
「その瞳を、マリアにください」




『残酷な世界に瞳をとじて願う』

 心の底では分かっていたことだと、男は死の間際にあって、ようやく認める気になった。
 男は、自分の最高傑作が孕む矛盾というものを、おぼろげながらも理解して、けれど目を向けようとしなかった。そんな男だから、その矛盾に気づいたときにはもう人生が終わりに近づいていた、という現実は、なんとも都合が良かったし、唯一の幸いだったと思っていた。
 その矛盾と真剣に向き合うだけの勇気は、男にはなかったからだ。その無責任さがどれほど相手を苦しめることになるのか、それは彼の想像の範囲外だった。
「――マリア」
 呼べば、傍らに控えていた女は、すい、と顔を近づけてきた。焦がれた双眸、しかし、本当のところは……最後の確認など、出来るはずもなく。臆病な自分を低くわらった。彼女がしゃべれないのを良いことに、男は最後の一線を越えることを拒んだのだった。
 いや――違う。
 どうでも良くなったのだ。今ようやく矛盾の存在を認め、それまで求めていたものが全部、その辺りに生えている雑草のごとき軽さを持ったのだ。
 ああ、なんだ……と、男は咳き込みながら苦笑する。
 ただ、愛せればそれで良かった。愛しい者が傍にいる。それだけで、十分満たされていたというのに、彼女への愛を自覚したとき、なぜその結論に達さなかったのか。
 ただ微笑みを落とすだけの女の白い頬を、軽く撫でる。そしてあご、首筋、胸元、と徐々に下げて、
「すまない」
 そのまま落ちた。
 彼の愛した聖母は、物言わず、ただ微笑むだけ。










 マリアは新しい墓穴を、掘っている。
 真新しい、けれどお粗末な墓は、死神の哀れみを誘うにはまだ足りない。マリアを囲む死は着実にその濃度を増しているが、責め苦を受ける亡者のごとくただ生を懐かしんで留まるのみである。
 墓を掘り終わったマリアは、先ほど手に入れた「モノ」を取り出す。
「あぁ――……」
 吐息が夜闇に溶ける。
「新しい双眸」を通して見た世界。期待に反して何一つ変わらぬ光景が広がっていた。しかしマリアの落胆はさほどでもない。永久の苦痛に生きるマリアにとって、幾度希望を絶たれようと瑣末なことである。
 マリアはただ瞳を閉じる。やがて訪れる終焉は、死か成就か。
 暗い眼窩を晒す屍に、眼球を還す。瞳を入れなおすと、彼を丁重に埋めた。
 喪に服す空が、ただ、愚かで空虚な聖母を見つめている。
 






タイトル提供:幻想廃墟(自サイト)

UP:2014/06/10