全ては虚ろを懐く 08

「聞いたか? シスターの話」
「ああ。俺は最初からあいつが怪しいと思ってたんだよ」
「あんな悪魔がシスターなんて冗談じゃないよ、まったく」
 村は昨日からずっとこの話題で持ちきりだった。少し出歩けば、全くこの話題に無知な者でも家に帰って来る頃にはほぼ全ての事情を理解できる程、一種の伝染病のように広がっていた。
 しかしソレイユはそれらの話に一切加わらず、ユーロウ宅の玄関を叩いた。数秒の間の後「開いてるよ」と無用心な宣言が返ってきて、ソレイユは遠慮なく扉を開けた。いつもの席に座ったユーロウが笑顔で、
「ようこそ、第一発見者さん?」
「その呼び方止めてよ、あなたまで」
 茶化すような響きに眉をひそめる。ユーロウはそんな彼女に対して特に悪びれた様子もなく形だけの謝罪を口にした。
 案内されずともソファに座り、ユーロウも何も言わずにお茶を出して、再び座った。お互いに一口ずつ啜る。黙っていると、ユーロウが先に話を振った。
「それで、何しに来たのかな」
「あら、分かってるくせに」
 微笑を浮かべて言い返すと、ユーロウは苦笑して、
「そうだね。教会での話を聞かせてよ」
「ふふっ、お安い御用だわ」
 エトワールに見せていた愛嬌のある笑顔とはまた違った顔で笑う。しかし、だからと言ってそこには邪悪さはなく、ただ純粋な狂喜が渦巻いていた。
 ソファに寄りかかり、ソレイユは昨日見た光景を語り始めた。



「リューヌが居ない?」
「ええ、そうなのよ」
 空が朱に染まった頃、不安そうに駆け込んできたのは、最近結婚式を挙げたブリュノの妻ミリアだった。
「いつからなの?」
「分からないけど、一昨日は家に帰ってないって夫が言ってたわ」
 一昨日というと、彼に「別れればいい」と言った日か。一瞬苦悩の末の失踪かと思ったが、リューヌはそんな中途半端で安易な答えに手を伸ばしたりはしないだろう。最も可能性が高いのは駆け落ちか……ソレイユは自らが導き出した案に顔をしかめる。そんなのは許さない。――そうだ、エトワールはどうしているのだろう。もし本当に彼が居なくなったとしたら、一番に彼女が相談に来るはずだ。
「一昨日から、誰か教会へ行った?」
「教会……さぁ、礼拝以外はほとんど誰も行かないと思うけど」
 いよいよ駆け落ち説が有力になってきた。これは確かめなければいけない。場合によっては探し出し、連れ戻す。念入りに手を加えた、後は堕ちるのを待つだけという果実達に逃げられてたまるものかと、ソレイユは内心で息巻いていた。
「ちょっと教会へ行きましょう」
 ソレイユは「教会?」と不思議そうなミリアの腕を引っ張って家を出た。
「何だか、不気味ね」
 夕日を受けて聳え立つ教会を前に、ミリアが身震いした。オレンジ色に染まった教会は、不気味さではなく哀愁のようなものを漂わせているように思えた。ソレイユは頑丈そうな扉に手をかけ、ゆっくりと引く。予想に反して、扉は簡単に開いた。
 途端、鼻につく妙な臭い。鉄錆を口に含んだような、嫌な感覚だった。
「エト……ひっ」
 乾いた空気が喉に張り付いた。
 ここは果たして本当に、教会なのだろうか。そんな疑問が浮かんでくる程、凄惨だった。しかし、ソレイユは恐怖とは別にもう一つ、正反対と呼べるだろう感情が湧き起こっていることに気がついた。
 続いて入ってきたミリアもその光景を見て同じように絶句する。
「……ソレイユとミリア、さん?」
 十字架の下で「真っ赤な」法衣を身に着けたエトワールが、座り込んで悠然と微笑む。しかしその表情はどこか虚ろで、焦点が定まっていないようにも見えた。彼女の膝の上には少し大きめの籠があり、ソレイユもミリアもその中のある一つの果実を凝視する。
「エトワール、それ……」
 若干赤みを帯びてはいるものの、まだ収穫すべきではない果実達。その中に混じる、不自然極まりないもの……嫌でも目に付く。
「ああ、収穫には少し早かったのだけれど……苦労したのよ?」
 エトワールが、「それ」を籠の中から持ち上げ胸に抱いた。ミリアが短い悲鳴を漏らした。
 ――血の気の失せたリューヌの首だ。血は乾ききっているらしく、傷口はどす黒くなっている。
 天井のステンドグラスから夕日が零れている。それはまっすぐにエトワールを照らし、この現実を否定するかのように、まるで絵画の世界のように穏やかな色彩を放っていた。
 ミリアは目を背けるが、ここに来てソレイユの恐怖は急速に薄らいでいった。代わりに彼女を支配したのは、恍惚だ。
「ミリア。自警団を呼んで来て」
 有無を言わせない口調で言う。ミリアは「でも……」と戸惑いを見せたが、ソレイユが頷くとくるりと踵を返した。
 ソレイユは深呼吸をして、改めてエトワールに呼びかけた。
「エトワール。何が、あったの?」
 同時に、一歩踏み出す。
「あなたの言った通りだったのよ。リューヌが……別れようって。好きな人ができたって」
 エトワールが俯く。肩が震えている。涙を堪えているようだ。
 好きな人ができたというのは嘘だろう。エトワールに諦めてもらうにはそれが一番良いと判断したのかもしれないが、それがこんな結果をもたらすとは……誰が予想できただろうか。二人に働きかけたソレイユでさえ、まさかここまでの事態になるなどとは思ってもみなかった。
「あんなに愛し合っていたのに。――許せなかったし、何より悲しかったわ」
 顔を上げると、またあの虚ろな微笑みが浮かんでいた。ソレイユは確信する。彼女の瞳はもう、何も映してはいないのだと。愛しい人の面影を追い続けるだけの、絶望的な空虚さしか宿してはいないのだ。
「数多ある星の一つでしかない私の手は、決して月に届きはしない。太陽でもない限り、月が私を見てくれることなんて、あり得ないんだわ」
 だからね、とエトワールが首を愛しそうに撫でる。
 ――触れられぬのならいっそ、大地に堕としましょう。私はあなたを追って、その大地に流れ堕ちるわ。
「どう? 私達お似合いでしょう?」
 エトワールは首を自分の顔の横まで大事そうに持ち上げて、尋ねてくる。ソレイユは息を呑んだ。返り血を浴び狂気にまみれた彼女はそれでも、聖母のような凛とした美しさを持っていた。
 あの冬の日、自分の中で歪んだ歯車が喜びの軋みを上げているのを明確に感じる。感動に息が詰まって、言葉にならなかった。しかし辛うじて頷くことができた。恐らくどんな賛辞を並べ立てても、今のエトワールを表現し切れないだろう。ソレイユは心地良い感情にずっと浸っていたかった。
「ソレイユなら分かってくれると信じていたわ。だから、あなたにはどうしても見てもらいたかったの」
 ――私達が結ばれる瞬間を。
 言って、エトワールは彼の唇に自分のそれを重ねた。長く、長く、味わうように……それは時が止まってしまったのだろうかという錯覚に陥る程に。
「ああ……」
 思わず漏らした喘ぎ。
 ソレイユは近づくのを止めた。……壊れるのは構わない。しかし、自らの手でこの芸術を壊したくはない。この身勝手な思いに応えるかのように、この美しさを理解しない者達の無粋な足音が徐々に教会に近づいてきた――



「……僕も見たかったな、その場面」
「あら、ダメよ。勿体無くて他人には見せられないわね」
 ぽつりと漏らされた呟きに、ソレイユはおどけた口調で反応した。しかし、これは本心からの言葉だ。ミリアに自警団を呼ばせたのは、邪魔だったからに他ならない。親友を庇うという考えは頭になかった。ただただ、あの光景に圧倒されていた。
「それで、その後はどうなったんだい?」
「あなたも知ってる通りよ。自警団に捕まって、あの使われてない牢屋に入れられたわ」
 窓の外へと視線を送る。ここから牢が見えるわけではないが、つい目を遣ってしまうのだった。
「抵抗しなかったんだ、シスターは」
「大の男数人に押さえつけられて、振り解こうって言うのが無理な話ね。まあ、そもそも抵抗する気はなかったみたいだけど」
 エトワールの興味は全てリューヌだけに注がれていた。自警団に腕を取られた拍子に転がり落ちた首。それに向かってもう片方の腕を伸ばしていたときの、悲痛な顔は今思い出してもぞくっとする。
「君は自警団に何も訊かれなかったの?」
「ええ。愛想の良さは一級品だからね、ちょっとか弱い振りしてあげたらすぐに帰ってくれたわ」
 ――ああ、女ってのは怖いな。ユーロウはそう言って肩をすくめた。
「リューヌの遺体は墓地の奥に埋葬されたわ。首も一緒にね」
「そう。そういう情報には疎くてね、助かるよ」
 これで話すべきことも尽き、帰ろうかと思案していると、
「ソレイユはタナトフィリアって知ってる?」
 ユーロウが聞き慣れない単語を口にした。彼は苦笑すると「君みたいな人のことを言うんだよ」お茶を含んで喉を湿らせていた。
「終滅愛、とでも言うのかな。滅びの瞬間に性愛――君の場合は恍惚だけど――を感じる人のことだ」
 ユーロウは「あ、僕は違うよ。リビィラに滅んで欲しくないし」と付け加えた。
「僕達は異端という点では同じだけど、その中身は正反対なんだ。本当にまったくの反対だから、逆に上手く付き合える」
「それで、何が言いたいのよ」
 珍しくにこにことしているユーロウに問いかける。
「ソレイユ。君が隣人で良かったよ。これからも宜しく」
 差し出された右手。ソレイユは苦笑して「こちらこそ」握り返した。