全ては虚ろを懐く 07

 母はいつも言っていた。
「あんたは可愛くないんだから、せめて愛想だけでも良くしとくんだよ」
 幼い少女は母の言葉に傷つき、けれどその言葉を忠実に守って実行していた。その甲斐あってか少女は特に誰から嫌われることもなく、それなりに生活を楽しんでいた。誰にでも良い顔をし、笑顔を振りまき、同調する。八方美人という言葉さえ封じ込める程の完璧さで、少女は自分の身を守っていた。
 少女の世界は完全に確立されたが、代償として自らを抑えつけることを余儀なくされた。
 やがて母が疫病に倒れ、少女も厄介払いをされる形で故郷を追われた。辿り着いた先の村でも持ち前の愛想の良さですぐに溶け込み、今日に至るまで暮らし続けている。皆に嫌われているシスターと仲良くしても決して自分は蔑みの対象にはならず、「君は優しいから」と好意的な解釈をされて終わるのだ。誰も本当の私を知らない。けれどそれは悲しむことではない。少女自身もいつしか、自分が「偽善者」の仮面をつけていることを忘れて、日々を過ごしていた。
 しかし隣人の一言が、彼女の確立した世界にひびを入れ、壊した。
『気持ちを偽るのは良くない。もう気づいてるんだろう?』



 ソレイユと仲良くなって少し経った時、彼女にぼやいたことがある。
「友達……良いなぁ」
 今となっては、何故そんな子供っぽい発言をしたのかは分からない。ソレイユの話す日常があまりに楽しそうで、ついそんな思いに駆られてしまったのかもしれない。自身に降りかかった孤独を受け入れながらも、心の底では誰かの温もりを欲していたのだ。
 その数日後だった。彼女がリューヌを伴って教会へ来たのは。
 穏やかな春の日のことだった。
「友達のリューヌ。そこで会ったからつれて来ちゃった」
「……初めまして」
 一応挨拶だけはしてみたものの、まさか男の人が一緒に来るなんて思わずエトワールは戸惑う。リューヌも突然つれて来られて困っている様子だ。
 果実の手入れも忘れてぼうっと立っていると、女二人に挟まれたリューヌがおずおずと口を開いた。
「えっと……宜しくね、シスター」
「シスターじゃないでしょ」
 ソレイユがリューヌを小突いた。「え?」と見返す彼に、ソレイユは「分かってないわねぇ」と首を左右に振って、
「シスターじゃないわ。エトワール、でしょ」
「あの、別に良いわよ、シスターで」
「ダメよ、変じゃない」
 そう言われても、一体何が変なのか分からない。自分はシスターだし、ソレイユ以外の村の人達もそう呼ぶ。彼がシスターと呼ぶのは当然ではないか。二人が黙っていると、ソレイユは大袈裟に溜息をついて肩を落として見せた。
「あのね、普通、友達のことを役職名で呼ぶかしら?」
 リューヌは合点がいったらしく、「ああ、そうだね」とふわりと笑った。その笑顔に心臓を跳ね上げつつも、エトワールはまだ事情が飲み込めない。
「友達の、友達は、友達、でしょ」
 ソレイユ、リューヌ、そして最後にエトワールを指して「分かった?」という視線を寄越す。思わず頷いて、しかし理解が追いつくのには若干の時間を要した。
「友達……本当に?」
 こんなに素敵な人が? 嬉しいような困ったような、そんな微妙な表情で疑問を口にすると、リューヌが手を差し出してきて、言った。
「改めて、宜しく。エトワール」
 握り返そうとして、自分の手が汚れているのに気づき慌てて拭った。その様子がおかしかったのか、二人が声をあげて笑い、エトワールも戸惑いつつも、笑顔を返した。



 握り返した手の温かさは今でも記憶に焼きついている。それからソレイユはリューヌと一緒に来ることが多くなり、更に日が経ったら、今度はエトワールとリューヌの二人で逢う機会が増えた。淡い憧れは仄かな恋心となり、それは彼の方でも同じだったようで、どちらから告白するでもなく相思相愛の仲だと気がついた。
 エトワールはベッドに腰掛けながら、あの日差し出した右手を眺めていた。あの日から世界が変わったのだ。村の人達の白い視線も、彼の眼差しさえあれば苦にならなかった。彼らの前に立たなければいけない礼拝も、その中にリューヌが居ると思えば逆に待ち遠しいくらいだった。
 エトワールの世界は、リューヌが居なければ最早成立しない。星が煌めくには確かに太陽も必要だが、今エトワールが最も欲しているのは星と同じように夜空を飾る月だ。
 星の手が月に届かないはずがない。エトワールは右手を強く握る。そうだ、届かないなど、有り得ない。
 有り得ない、あるはずがない、あってはいけない――執拗なまでに自分自身に言い聞かせた。
「そろそろ行こうかしら」
 エトワールは立ち上がる。夜に逢うというのは珍しかった。ちょっとした期待と不安を胸に抱きながら、エトワールはいつもの場所へと向かう。
 夜空では星々が宝石のような輝きを放っていた。――いずれあの輝きは自分のものになる。足取りも軽く向かった先には、既にリューヌの姿があった。空から零れ落ちてくる星明かりに照らされた恋人の顔は青白く光り、色っぽさを醸していた。しかしその表情はどことなく硬い。その気配を敏感に感じ取って、エトワールは困惑気味に尋ねる。
「今日はどうしたの?」
「僕、ずっと考えていたんだ」
 その質問に答えているのか、答えていないのか、微妙な返事をするリューヌ。エトワールは黙って次の言葉を待った。
 ――私の手が震えている。何故だろう。
「僕達は別れた方が良いと思う。いや――別れるべきだ」
 その言葉の意味を理解するのに、数秒の時間を要した。そして意味を飲み込んだ刹那、エトワールは足元が崩れ落ちるのを感じた。信じられない想いで眼前に立つ恋人を見つめる。いや、彼の様子から予想はしていたのだ。しかし信じたくなかった。
「どうしてそんなことを言うの……?」
 辛うじて出た言葉は、何とも陳腐な疑問だった。優しい彼は俯く。
「エトワールは、シスターで在るべきなんだ。でもこのままだと僕はきっと……だから……ごめんね」
 天使のような彼から発せられたのは、どんな断罪よりも無慈悲で残酷な謝罪だった。右手だけが急速に冷えていくのを感じる。あの温もりを失うまいと伸ばした手を、彼はさり気ない仕草で一歩後ろに下がってよけた。
 悲しいことに、エトワールは拒否に敏感だった。
「……っ」
 エトワールは声にならない呻きをあげると、その場に座り込んでしまった。
「私……良いのよ、別に……」
 あなたさえ居れば、何もいらない。震える声で訴えても、リューヌは静かに首を振るばかりだった。
「君はシスターでなければならないんだ。……何か間違いがあってからじゃ、遅いんだよ」
 間違いなどあるものか。あなたのためならば、神の言葉を否定することさえ躊躇わない。道理すらも、喜んで踏み外してみせる。
 心の中では反論しながらも、しかし出たのはまったく別の台詞だった。
「誰かほかに、好きな人……できたの?」
 ふと……ソレイユの言葉が浮かんだのだ。
『ほかに、好きな人ができたのよ……それで、あなたとはどう別れようか悩んでる』
 ――否定してよ、この言葉も何もかも。今の話は全部冗談だって、あの柔らかい笑顔で笑い飛ばして……。
 しかしエトワールの願いも虚しく、リューヌは逡巡した後に浅く頷く。
 エトワールはいよいよ堪えきれなくなって、耳を塞ぎ目をきつく瞑った。もう悪夢はたくさんだ。赤くなり始めた果実と葉のにおいだけが世界を満たす。
 時間すら動きを止めたかのような静寂が流れた。
「ごめんね……さようなら。シスター」
 最も聞きたくなかった悪夢が沈黙を破る。
 シスター。友人さえもやめると言うの? ついに涙が溢れ、頬を伝う。
 さくりと土が鳴り、その音と共に愛しい気配が遠退いていく。
 行かないで! 叫びたかった。しかし、渇ききった喉は意味を成さない嗚咽のみを漏らした。虫さえも息を潜める闇が冷たく体に突き刺さった。
 顔を上げて咄嗟に伸ばした腕は、やはり届かない。あの日々はもう二度と手に入らないのか。指先を撫でるのは冷たい絶望の気配だけだった。空虚感が風に舞う。
 しょせん星では無理なのだ。無数に在る内の一つというちっぽけな存在では、月を繋ぎ止めておくことなど不可能なのだ。悲しみに満ちた瞳に、徐々に違う色が広がっていく。
「リューヌ……!」
 憎悪を孕んだ双眸が妖しく光る。その瞳が映すのは、去っていく愛しい背中。その背に向かって駆け出した。
 ――もう何も、考えられなかった。