全ては虚ろを懐く 06

『別れてしまえばいいのよ』
 ソレイユの放った一言は強烈に、リューヌの頭の中に植えつけられた。
 別れを考えたことがないと言えば嘘になる。むしろそれが最も有力な案として、常に頭の片隅に潜んでいた。しかし、今までどうしても踏み切れなかった。別れに手を伸ばそうとすればする程、彼女の笑顔がちらつく。潤んだ双眸が見上げてくる。温もりが思い出される。
 自分がどうしようもない程彼女を愛しているのだと、思い知らされるのだ。
『別れてしまえばいいのよ』
 それは天使の助言のようでもあったし、悪魔の囁きのようにも聞こえた。その言葉は幾重にもなって響き、リューヌの気持ちを支配していく。
 ――だめだ、こうしてじっとしていると思考が止まってしまいそうになる。リューヌは気分転換に外へ散歩に出かけることにした。
 空には千切れた雲がふわふわと浮いていて、たまに太陽の前を横切っては影を落としていく。
「よお、リューヌ。どこ行くんだ?」
 ようやく畑仕事を終えたのだろう。近所に住むカロジェおじさんが土にまみれた手を振って近づいてきていた。歳のわりにしっかりとした体つきで、おそらくリューヌよりもずっと逞しいだろう。
「ただの散歩ですよ」
 軽く会釈をして答える。
「畑はどうですか?」
 適当な話題も思いつかなかったので、特に意味もなく尋ねてみた。リューヌの中にはあまり「そのまま立ち去る」という考えがない。
 カロジェは肩をすくめて「ちと厳しいなぁ」とぼやいた。
「息子夫婦からの仕送りがあるから、やってけてるって感じだな。いやぁ、教会が羨ましいぜ」
「教会が?」
「ああ、知らねぇのか? 村の外れの果物畑あるだろ。土地の質が良いんだよ。多分前の神父がきちんと手入れしてたんだろうな」
 顎に手を当てて溜息をつくカロジェ。前の神父は、リューヌも知っている。誰もが理想とするような人柄で、絶大な支持を受けていた。彼が違う教会へ赴任するとなったときの村人の落胆と言ったら、とても言葉では言い表せない程だった。そんな彼と入れ替わる形で来たのがエトワールだ。村人は前神父のような人柄を彼女に求めたが、まだ若いエトワールにはそれに応えるだけのものはなかった。
 しかしリューヌは、この言葉に光を見出そうとある提案をしてみた。
「じゃあ、シスター・エトワールにそのやり方を訊いてみたらどうですか? 彼女なら毎日あそこの世話してますし、きっと知ってますよ」
 これを機に彼女が村の人達と打ち解けられたら。そうすればもっと頻繁に外を出歩くかもしれないし、何より生活が楽しくなるに違いない。
 しかしそんなリューヌの願いも虚しく、カロジェはぽかんとした後思いっきり声をあげて笑った。
「はっははは、無理だよ、無理。確かにそれが良いのは分かるが、シスターは好きじゃない。あんまり近づきたくねぇんだよな」
「……エトワールに、ですか?」
 あまりに普通に言われたので、リューヌは一瞬反応が遅れた。好きじゃない、近づきたくない――深く体を抉られたような衝撃が走った。カロジェは「皆そうだよ。必要以上に関わりたくねぇって」リューヌの心情とはお構いなしに言い放つ。
「いろいろとタイミングも悪かったし、その点は同情するが……やっぱ、第一印象ってのは強いな」
「そう……ですか」
 リューヌは肩を落とす。きっかけさえあれば大丈夫だと安易に考えていたが、そのきっかけすら村人側が拒否するのでは、なかなか難しい。だが、リューヌに衝撃を与えたのはそれだけではなかった。
「正直な話なぁ……死んでほしいって言ってる連中まで居るんだ。シスターに」
「……は?」
 さすがのリューヌも言葉を失った。あまりに酷い言葉に、二の句が継げない。何故か心臓が必要以上に脈打っている。怒りか、哀しみか、あるいは両方のせいか――
「一応この辺の土地は役場が管理してるだろ。教会に誰も居なくなれば、一時的とは言え土地は役場に返還される。そんとき、自分らに土地分けて貰えば良いからな」
「でも、そんなことって……酷すぎます」
 笑いながら同意すると思ったのだろうか。リューヌからしてみれば、あの子供のように純粋なエトワールを殺すなど考えもつかないことだった。この言葉をどう取ったのかは分からないが、カロジェは少し早口になって言った。
「はは、実際に殺そうなんていう連中はいねぇよ。シスター殺しなんて、後味悪いだろ」
 後味とか、そういう問題じゃない! ――叫びそうになるのを、すんでのところで堪えた。
 まるでシスターでなかったら今すぐ殺したい、とでも言っているように聞こえた。「言ってる連中が居る」なんてさも他人事のように話すが、彼もそう思ってる一人なのだろう。
 その後数回言葉を遣り取りして彼とは別れた。
『別れてしまえばいいのよ』
 再びソレイユのあの一言が纏わりついてくる。気分転換のつもりが、まったくの逆効果だった。
 リューヌの足は自然と教会へと向かう。扉は閉ざされていた。それはエトワールが交流を拒否しているようにも見えたし、自分達が彼女を閉じ込めているようにも見えた。しばし逡巡した後、リューヌは教会の扉を開ける。礼拝堂にエトワールの姿はなかった。
「エトワー……シスター、居ないの?」
 応える者は居ない。声は虚しく反響するだけだ。十字架に近づきながらもう一度呼びかけてみると、奥の扉から慌しくエトワールが出てきた。
「ご、ごめんなさい……ちょっと作業に集中してて、気づかなくって」
「大丈夫だよ。僕こそごめん、邪魔しちゃったね」
 エトワールは大袈裟に首を振り「そんなことないわ、嬉しい」周囲を確認してから抱きついてきた。
「奥で何してたの?」
 手近な長椅子に座って尋ねる。エトワールは隣に座って頭をリューヌの肩に預けながら、
「収穫のときに使う籠が、ちょっと壊れちゃってたのよ。それの修理を、ね」
「ああ、そうか。もうすぐ収穫だもんね」
 夏も終わりに近づいている。秋になればあそこには真っ赤な果実が実るのだ。
「いっぱい採れたらリューヌにも、分けてあげる」
 嬉しそうなくエトワールの姿を見てると、先程のカロジェの言葉に改めて怒りが湧いてきた。同時に、彼女がシスターである必要性も強く感じた。彼女の立場は予想以上に壊れやすい。やはり彼女は、シスターで在るべきなんだ。
「ねぇ」
 弾んだ声で収穫のことを話すエトワールを遮って言う。エトワールは言葉を止めて不思議そうに首を傾げた。
「今晩、いつもの場所で逢える?」
 エトワールは即座に頷いた。自分の誘いに、ただ純粋に喜ぶ彼女を見ていられなくて、リューヌは「それじゃあ、今晩」教会を飛び出した。