全ては虚ろを懐く 05

 ソレイユはエトワールと並んで果実園から教会へ向かっていた。
「有難う、助かったわ、ソレイユ」
「別に良いわよ、このくらい」
 隣で無邪気な笑顔を見せる親友に軽く笑いかけて言った。果実園の手入れを手伝い始めたのは朝方だったが、既に太陽は真上に差しかかろうとしている。エトワールはいつもより早く終わったと喜んでいたが、ソレイユは、普段はもっと早い時間に手入れを終えているのを知っていた。おそらく、彼女一人ならば三十分は早く終わっていたかもしれない。
 このどうしようもない程の優しさと気遣いは、どこから湧いてきているのだろう。そこにはわざとらしさなど微塵もなくて、純粋が服を着て歩いているかのようだった。そしてその衣装は、その言葉を飾るに最も相応しいものだと思われた。
「それでさ、リューヌとはどうなの?」
 尋ねると、親友の頬が一瞬で朱に染まった。エトワールは「えーっと……特に、何も」蚊の鳴くような声で呟いたっきり、俯いて地面に視線を這わせていた。
 ――進展なし、か。ソレイユはほくそ笑む。
「ほんっとうに何にもないの? 付き合ってもう数ヶ月でしょ?」
「あ、あの、そんなに大きな声で言わないで……」
 周りを気にするようにエトワールが声をあげて、自分の口元に立てた人差し指を当てる。
 ――聞かれたって良いじゃない。
 喉元まで出かかった本音をすんでのところで飲み込み「ごめんなさい、気をつけるわ」軽く頭を下げた。
「でも相手は健全な男子なんだから、そろそろ何か事が起こっても良さそうなのにねー」
「こ、事って?」
 怯えるような眼差しに、「にっ」と口元を上げて、
「そんなの分かってるでしょー? んもう、私の口から言わせないでよ!」
 奥底でどす黒いものが渦巻いているのを確かに感じる。しかしそんなものは無視して明るい口調で言い放った。
「え? あ、ご、ごめん……」
 ソレイユの言わんとしていることを理解したようで、耳まで真っ赤にするエトワール。頭の中ではいろいろと妄想が渦巻いているのだろう。「あ、でも……そうよね……」と時折意味の分からない呟きが漏れてくる。その表情はどこか虚ろだ。経験がない故の想像は留まることを知らないようだった。
 これもある意味では純真と言えるのかもしれないが……たまにエトワールという女性が分からなくなる。
「これ以上待っても何も進展がないようなら……答えは一つね」
 神妙に言うソレイユを、エトワールが疑問を込めた双眸で見返してくる。意識的に声を潜めて、意地悪く囁いた。
「ほかに、好きな人ができたのよ……それで、あなたとはどう別れようか悩んでる」
「……まさか」
 エトワールの顔が強張る。無理に笑おうとしているようだが、唇が変な風に動いただけで終わった。
 古びた教会の尖塔が太陽を背に聳え立っているのがはっきりと視界に入ってきた。その影が、二人を覆う。それはまるで、たった今エトワールの心に差した絶望の闇のようであった。
「リューヌに限ってそんなことないわよ」
 断言するも、その声は震えていた。――何か思い当たる節でもあるのかしら。こっそり笑うと、それとは正反対の慈愛に溢れた笑みを浮かべてエトワールの肩を優しく叩いた。
「冗談よ、じょーだん。そんな泣きそうな顔しないで」
 ちょうど教会の裏口まで辿り着いた。二人を覆うだけだった影は、今や圧し掛からんばかりの勢いだ。「それじゃあ、またね」別れを告げると、「ええ、また」エトワールは名残惜しそう笑う。それは暗闇を恐れる迷子のような、不安げな表情だった。
 ソレイユは親友が裏口のドアを閉めるまで見届け、その足である場所に向かった。自宅を通り過ぎ、痩せた畑を踏みつけて進む。
「やあ、ソレイユちゃんじゃないか」
 にこやかに話しかけてきた、よくお世話になってる雑貨屋のおじさんに「こんにちは」と極上の笑みを返した。これをただの愛想笑いだと見破った人物は未だに居ない。
 彼と二言三言会話し、やがて辿り着いたのはリューヌの家だった。カーテンは開けられていたが、室内から光は漏れてはいなかった。さっと覗いた部屋に彼の姿は見当たらない。――居ないのかしら? 首を傾げつつ扉をノックをする。
「ソレイユだけど」
 呼びかけて数秒後、ゆっくりと扉は開けられた。
「ごめんごめん、ちょっとうとうとしてて」
 現れたのはいつもの笑顔を湛えたリューヌだった。しかし、ソレイユの目は誤魔化せない。昔からその笑顔が本物かどうかを見破るのは得意だった。彼は嘘をついている。女の直感がそう告げる。
「今日はどうしたの?」
「近くを通ったから、寄ったんだけど……迷惑だったかしら?」
 眉を下げて、少しの上目遣いと共に首を傾げた。たいていの男はこれで折れる。生まれついた容姿に少し問題があっても、そんなものは立ち居振る舞いでどうにでもなるのだ。
「そんなことないよ。お茶でも飲んでく? ちょうど冷えた頃なんだ」
「有難う。それじゃ、お邪魔するわ」
 ソレイユはテーブルに案内されてすぐ、「それで、何をやっていたの?」と尋ねた。
「え? ちょっと寝てたんだけど……」
「嘘ね」
 目を丸くしながらお茶を運んできたリューヌの言葉を、一言で切り捨てる。全てを見透かしているわけではないが、彼にはソレイユの瞳がそう物語っているように映っているのかもしれない。
「何を考えてるかは知らないけど、別にやましいことをしてたわけじゃないよ」
「分かってるわよ。あなたはそういう性格じゃないものね」
 リューヌは座ったまましばし視線を彷徨わせた後、「ソレイユだから言うけどね」と前置きして話し始めた。
「神様って本当に居ると思う?」
「どういう意味?」
「そのままの意味だよ」
 訝しがるソレイユに溜息をついて返答すると、指を組んでその上に顎を乗せた。底知れぬ憂いを帯びた緑の双眸でソレイユを見つめる。
「どうして疑うの?」
 神の存在を否定も肯定もせず、ソレイユは質問を返した。
「エトワールのことを考えていたんだ。彼女……シスターだろ。だから、神様って居るのかなって」
「話の前後が繋がってないように聞こえるんだけど」
 とは言いつつも、ソレイユには彼の言わんとしていることが何となく理解できた。
「もし神が居ないのなら、彼女は一体誰の妻で在ると誓ったんだろう。彼女の隣は空いているんじゃないか? その相手は僕ではだめなのか? ああ、分かってるよ――こんな風に考えるのが馬鹿げているのは十分分かってるんだ……でも、考えずには居られないんだよ。エトワールの上には一体誰が……何が居るんだろう」
 言い切って、リューヌは少しすっきりしたようだ。ちょっとした満足感が伝わってきた。
「それ、エトワールには言ったの?」
「言えるわけがないよ。エトワールはシスターであることを望んでいるんだから。そんな彼女に向かって神を否定するようなこと……」
「そういう態度で、エトワールから何か言われない?」
「言われるよ」
 割とあっさり首を縦に振り、リューヌは組んでいた指を外した。彼が背もたれに体を預けると、椅子が短い悲鳴をあげた。
「二人で居ると、たまに理性が動かなくなるときがあるんだ。そういう時だよ、エトワールが『恋人らしいことしても良い』って口にするのは。本当は嫌なはずなのに。僕の感情なんてお見通しって感じで……僕は彼女に気を遣わせてしまってるんだ。そう思うと自分が酷く情けなくて、恥ずかしくて、それで理性が戻ってくる」
 ――なるほど。ソレイユは頷く。二人の見事なまでのすれ違いに、今にも吹き出しそうになる。あの子は単純に、自分の願望を口にしているだけに過ぎないだろうに……どうしてこうも都合よく相手を美化できるのだろうか。
「それに、シスターを穢すなんて、僕が耐えられそうにないんだ」
 一方では神の存在を否定し、他方ではシスターの神聖さを認める。リューヌ自身はこの矛盾に気づいていないようだった。シスターが神聖な存在で居られるのは、神が在ってこそのものなのだ。
「……なんにせよ、あなた達の願いは両立できないってことね」
 しかし、それを指摘するつもりはなかった。
「だったら」
 代わりに、囁く。
「別れてしまえば良いのよ」
 リューヌの瞳に映る自分は、酷く黒い笑みを浮かべていた。