全ては虚ろを懐く 04

 星々を従えた満月が夜空に輝いていた。ステンドグラスを通り抜けて神秘の光が降り注ぐ。
「素敵な夜ね」
 エトワールは壁に掲げられた十字架の下に座り込み、その光を一身に浴びる。彼女の白い肌が光を照り返すように輝いていた。愛しい人を思わせる光に、しばし身を委ねる。
 蒼穹にも似た双眸が鮮やかなステンドグラスを映すと、まるで万華鏡のように煌めいた。
「空に手が届きそうだわ。月をこの手に抱けそう」
 幻想の瞳で見上げる世界は美しく輝いていた。エトワールは窓に向かって腕を伸ばす。しかし、空は愚か窓にすらその指先は触れられない。遠すぎる月はただ、冷たくも優しい光を降らせるだけだ。決してその手の中へ降りてこようとはしない。
 だからこそエトワールは、執拗に、盲目的に、その細腕を伸ばし続けた。
 ――月に重なる、彼の幻影を取り除こうとして。



 教会の裏手にはエトワールの果実園へ繋がる道が伸びている。どこよりも肥沃なエトワールの土地は、秋になれば鮮やかな赤い果実を実らせるのだ。
 まだ太陽もやっと顔を出し始めた時間帯。普段よりも早めに教会を出たエトワールは、上機嫌で歩を進めていた。夏特有の湿気を含んだ空気も、どことなく心地良い。
 早起きをした理由は、勿論――
「エトワール、お早う」
 緑の葉に囲われて、リューヌが果実園で手を振っていた。まるで現世に舞い降りた天使のような姿に、刹那見惚れる。あの大きな背に翼があっても、自分は驚かないだろう。むしろあまりにしっくりきて、それが普通なのだと納得するかもしれない。
「お早う、逢いたかったわ」
 エトワールも大きく手を振った。大急ぎで近づき、その胸に顔をうずめる。いつもの彼の香りがした。
「ごめんね、いつもこんな時間で。でも昼間だと……」
「分かってるわ」
 彼が何を心配しているのかは、理解している。
 シスターは神を愛すことを誓った身であり、本来ならば人間の男と愛し合うことなどあってはならないのだ。
 もともと外からやって来たエトワールは、微妙な立場にいる。村の人々と良好な関係が築けているかと言えば、決してそうではなかった。閉鎖的なエトワールに対して村人は、「シスター」であること以外を彼女に求めない。神の御使いとして人々の懺悔を聞き、許しを与え、礼拝を行い、時に結婚式の牧師役をこなす。それだけがエトワールに与えられた役割だった。シスターが必要だからこそエトワールを村に置いているのであり、シスターとしての資格を持たない彼女などただ不気味なだけの女だった。仲良くなろうとした日々もあったが、機会はとっくの昔に逃していた。もうとにかく村人の神経に障らないよう努めるしかなかった。
「でも心配なんて要らないのよ。本当に」
「そうもいかないよ」
 言っても、リューヌの答えはいつも決まっていた。そして少し困ったように笑い、エトワールの髪を撫でるのだ。エトワールはと言えば、その温もりさえ失わなければ良いかと、自分を納得させるのだった。
「ねぇ、リューヌ」
 体を離す。リューヌが「なに?」と首を傾げた。エトワールのそれより深みのある双眸に見つめられると、それだけで頬が赤くなる。
 エトワールはしばし迷った挙句、付き合いだしてから今日までの数ヶ月間ずっと疑問だったことを口にした。
「その、どうして恋人らしいこと……き、キスとか……してくれないのかなって、思ったり、してるのよ……」
 どうして、の後から既にそよ風にすら掻き消されそうな声だった。けれどリューヌにはしっかりと届いたらしい。今度は彼も顔を染めて、「だってそれは」しどろもどろに答える。
 その様子に、エトワールは酷く後悔する。――ああ、言うんじゃなかった。この前の結婚式のせいで、少し頭がどうかしてたのかもしれないわ。
 理由は私が一番、理解しているのに……
 無意識のうちに潤んだ瞳で見上げた。お互いに気まずい沈黙に身を委ねる。
「……ごめん、そろそろ時間だ」
 唐突に放たれたのは、いつも通りの別れの言葉だった。エトワールは少し――別に期待してはいなかったが本当に少しだけ――落胆して頷いた。
「また逢おうね」
 リューヌは少し迷う素振りを見せてから、エトワールの頬に軽く唇で触れた。
 ――惜しい、もう少し右なら……思うだけで、決して言わない。
 リューヌが完全に見えなくなってから、エトワールは盛大な溜息をついた。また、はぐらかされてしまった。精神的に疲れてしまい、その場にしゃがみ込んだ。
 誰もが寝静まったような夜中、出歩くことがある。夜ほど安息を提供してくれる時間はない。
 そのとき先日夫婦の契りを交わした二人の家の近くを通ると、かすかに女の声が聞こえてくるのだ。苦しんでいるような、喜んでいるような……いくらシスターといえど、それが何を意味しているのか分かるくらいには大人だった。いけないと思いつつじっと耳を澄まして立ち止まるのだが、その内に恥ずかしくなって退散するのが常だった。
「リューヌは、そういうの、どうなのかなぁ」
 呟いて、そんなことを考えている自分に赤面する。しかし、どうにも想像は止まらなかった。
 教会の奥にあるエトワールの寝室。真っ白のシーツを敷いたベッド。消された明かり。男と女。後はいわずもがな。
「そんな、はしたない……でもリューヌが望むなら、うん……」
 一人暮らしが長いと自然と独り言も多くなる。しかしキスもして貰えないのでは、その先など到底期待できそうになかった。頭の中で繰り広げられる未知の世界を振り払うかのように、エトワールは首を振る。しかし空しい努力だったようだ。より鮮明になって彼女の脳内を支配していく。……そして思考は最初に戻っていく。
 この堂々巡りは、しばらく続いた。