全ては虚ろを懐く 02

 窓の外ではさらさらと雪が降り始めているらしく、冷たい空気が室内にまで入り込んでくる。
 男女がテーブルを挟んで座り、話をしていた。埃っぽく、狭苦しい部屋だ。ねずみが好んで棲みつきそうな、嫌な空気が漂っていた。
 二人の間に友人同士の気安さはなく、かと言って見ず知らずの他人同士の緊張感もなかった。
 ただの隣人。それぞれにとって、相手はそれだけの存在だった。今後その距離が縮まることもなければ、離れることもない。「隣人」という枠組みに切り取られた関係は、たとえ男女であれ容易にその一線を踏み越えたりはしないのだ。だからこそ二人は、こうして静かに会話を続けていられる。
「人形っていうのは、非常に良いものだ。そう思うだろ?」
 この家の主であるユーロウが楽しそうに言った。
「人形ですって?」
 出された冷たい紅茶をすすりながら、ソレイユが眉をひそめる。
「そうだよ。人形は決して逆らわないし、嫌がらないし、どこへも行かない。こんなに素晴らしい存在がほかにある?」
「生きてないんだから当たり前でしょ」
 熱く語るユーロウに、ソレイユはつっけんどんに返した。先程から取り留めのない途切れ途切れの会話を続けていたが、今度はいきなり話が変な方向へ飛んでしまった。
 しかもこの話題は彼の得意分野であるらしく、語る声色も瞳の輝きも数秒前の比ではない。長くなりそうだ。お茶に誘われたとき、無理に理由を作って断れば良かったが、今更悔やんでも仕方がない。ただでさえ、この暗い部屋の空気に辟易しているのに……ソレイユは溜息をつく。
「本当にそうかな、ソレイユ。では何故生きているにもかかわらず家畜はあんなに従順なんだと思う?」
「それは……そう躾けられてるからでしょう」
「だが完全に操ろうと思えば、それには相手の精神的な屈服も要求される」
 ソレイユはもう「はぁ……」と気のない返事をするだけだった。その瞬間、何か、かすかだが鼻腔をつく臭いがした。すぐに気配は消えてしまったが、今まで嗅いだことのないものだということは確かだ。
 ソレイユが訝しがって周囲を探ろうとすると、ユーロウが再び口を開いた。
「革命、というものを考えてごらんよ。表向きは素直に従ってるようで、その実、内心で燻っている不満をぶちまける機会を虎視眈々と窺っているじゃないか。被征服者の精神にまで支配が及んでいないと、痛い目を見るのは征服者なんだ」
「だから、人形を相手に優越感に浸るってわけ?」
 ソレイユは馬鹿にするように笑った。
 ……再びあの臭いが鼻を掠めていく。今度は、よりはっきりと感じた。生ごみを煮込んで調味料を構わずに放り込んだような、酷く不快な臭いだった。ソレイユは思わず鼻を塞いで、きょろきょろと視線を動かす。
「優越感、とは違うんだけどね……どうしたのかな?」
 ソレイユの様子に気づいたユーロウが首を傾げる。「ねえ、何か臭うんだけど……」遠慮がちに言うと、ユーロウは「ああ」と頷いた。
「もうそんな時間か」
 意味の分からない呟きを漏らすと、にんまりと口元を上げてソレイユを見た。
「せっかくだから、紹介するよ」
 何を? とソレイユが問う前に、ユーロウはさっさとテーブルの上のものをどかしていく。最後に質素なテーブルクロスに手をかけると、いっきに引っ張った。
「……これ……」
 ソレイユはソファに座りながら呆然とする。自分の声が震えているのが、確かに伝わってきた。目の前に現れたのは、無機質で黒一色に覆われた長方形の――。
 やたらと背が低いな、とは思っていた。しかしそれは対象がテーブルだと思っていたからこその感想なのであって、まさか、こんな……。
「もしかして、本物の、柩……?」
 本物とは一体何を指すのか。ソレイユ自身にも分からなかった。しかしユーロウは紅潮した顔で大袈裟に頷き、
「紹介するよ、僕の愛しいフィアンセ……」
 質問には答えず、ユーロウは恍惚とした笑みを浮かべて「蓋」を取り外していく。ソレイユは目が離せなかった。恐ろしいものが待ち構えているに決まっている――そう思ってみても、糸で縫われてしまったかのように、ソレイユは微動だに出来なかった。大きく目を見開いて、次に現れるであろう光景を待つ。
「あ……綺麗……」
「リビィラという。君ならそう言ってくれると信じていたよ」
 言うユーロウの声は、どこか誇らしげだった。
 柩から現れたのは、やはり予想通りの「もの」だった。しかし、特に腐敗が進んでいることもなく、骨になっているわけでもなく、まして干からびているわけでもなく……まるで眠っているかのようだ。リビィラの白い肌と同じ純白のドレスは糸屑ひとつなく丁寧に整えられているし、腰まで届く程の金髪も綺麗に梳かれている。肌に健康的な赤みはないが、それでもなお衰えない美しさを保っていた。
「そろそろ防腐処理の時間なんだ。少し待っていて」
 ユーロウは言うや否や奥の部屋に引っ込んでしまった。特にやることもなく、その間もリビィラを観察していた。違う、まるで魅入られたかのように、視線が外せないのだ。こんなにも美しいものを、未だかつて見たことがない。ソレイユは震える。しかしそれは恐怖ではなく、もっと別の何か――言葉では言い表せない複雑な感情故だった。
「気に入ってもらえたようだね」
 ユーロウが戻ってきた。香水瓶のようなものを手に、満面の笑みを浮かべている。
「これはとある呪術師の女性に頼んで、特別に作ってもらったんだよ。リビィラがいつまでも綺麗で居られるように、ね」
 ユーロウは柩に近づき、かがみ込んでリビィラの頬を撫でた。硝子細工を扱うように、優しい手つき。ソレイユは彼が腐敗防止用の何かを吹きかけるのを、黙って見ていた。腐臭は徐々に薄まり、何か不思議なすっとするような香りがその穴を埋めていく。
 異常な光景だ。理性が叫んでいる。
 しかし、どうしようもなく美しい。感情が反論する。
 そう、これは異常だ……人間は摂理に従い、神の御許へ旅立たねばならないというのに……シスター・エトワールが見たら何と言うだろう。あの敬虔な友人は、きっと涙ながらに説き伏せようとするに違いない……。
 私はそのとき、どうするだろう。
「考える必要はないよ、ソレイユ」
 はっとして隣人に焦点を合わせると、彼がこちらをじっと見つめていた。全てを見透かすような瞳に、たじろぐ。
「君は、僕と同じだよ」
 妙にきっぱりと言う。確かにリビィラは綺麗だと思う。閉じられた瞼、結ばれた唇……最高峰の画家が描いた絵画のようだ。
 ――ふと、リビィラが笑ったような錯覚を覚えた。
 ぞっとした。
 その吸い込まれそうになる、妖艶さに。
「私は……ちが、う」
 弱々しく反論すると、ソレイユは完全に惹きこまれる前にユーロウの家を出て行った。



 ユーロウに「フィアンセ」を紹介されてから数日が経っていた。ソレイユはあの奇妙な美しさが忘れられず悶々とした日々を過ごしていたが、やがて誘われるようにあの隣人の家を訪れた。
「ソレイユ、来てくれたんだね」
 出迎えたユーロウは白い息を吐き出して顔を綻ばせ、ソレイユを中へ招き入れた。一歩足を踏み入れるとまるで別世界のような辛気臭さが肌に纏わりついてくるが、前回程気にならなかった。ここはソレイユにとって、本当に別世界なのだから。
「リビィラは、元気?」
 死者に元気も何もないのだが、他に思いつく言葉もなかったので尋ねてみた。ユーロウは嬉しそうに目を細めて「元気だよ、会う?」ソレイユを例の部屋へ案内する。彼女が来ることを知っていたかのように、柩の蓋は外されていた。
 先日と変わらない姿で、リビィラが眠っている。本当に眠っているのではないか……その肌に触れてみるが、やはり冷たかった。
「今日は、例の薬つけないの?」
「あれは月に二、三回で良いんだ。この前やったばかりだから、まだ大丈夫だよ」
「ふぅん……」
 ソレイユは柩の傍にしゃがみ込んで、リビィラをまじまじと眺めた。数日のもやもやした心が洗われていくようだった。代わりに、心地良い興奮が体を支配していく。
「実はもっと強力な薬もあってね。支払いの目処が立ったから、今のがなくなったら頼むつもりなんだ」
「あなた、そんなにお金持ちだったの?」
 きっとソレイユなどが見たこともないような大金が、必要なのだ。驚いて目を丸くしていると、ユーロウは頭を振った。
「ソレイユが思っている程高くはないよ。……まあ、ある意味世界で最も高い買い物だろうけどね」
 付け足された言葉の意味は分からなかったが、ソレイユは「へぇ」と頷いた。それ以降二人は黙り込み、無言の時間が続く。ソレイユはひたすらリビィラを見つめ、ユーロウはそんなソレイユを後ろから見下ろしている。村の人々が見たら奇妙な光景だと首を傾げるだろう。村一番の変わり者と、人気者。隣人という以外接点のないはずの二人が、こうして同じ部屋に、しかも微動だにせず居るのだから。
「やっぱり、僕と君は同じだ」
 唐突に、ユーロウが口を開けた。穏やかで静かなその言葉はすっとソレイユの心の隙間に入り込み、広がっていく。ソレイユにはユーロウの言葉を否定するだけの言葉が見つからなかった。この前のように「違う」とは、言えなかったのだ。
「素質あるよ。僕が保証する」
 まったく説得力がなかったが、ソレイユは「そうかしら。有難う」と笑った。

 そうだ――確かに自分は、あのどうしようもなく異常な光景に、心を奪われている。

「気持ちを偽るのは良くない。もう気づいてるんだろう?」
 その言葉が引き金だった。
 ソレイユは、自分を構成する歯車がどこかで歪むのを、感じた。