全ては虚ろを懐く 01

 牢と呼ぶにはあまりにお粗末な代物だ。エトワールはぼうっとする頭で思う。自警団は手入れを怠っていたようだ。でなければ、今にも崩れ落ちてきそうな天井や錆び付いて茶色く変色してしまった鎖などの説明がつかない。肌に張り付く湿った空気も不愉快だ。
 格子の向こうに伸びる薄暗い通路を照らすのは頼りない松明のみで、その全貌を知ることはできなかった。しかしそれ程広くないのは間違いないようだ。部屋はここ以外にもいくつかあるが、全て空いていた。
 エトワールは鎖が許す範囲で格子に近づき、疲れて横になる。夏なのにひんやりとしていた。
 隅には用を足すための入れ物があるが、よくよく考えたらこの鎖だとそこまで届かない。自警団の馬鹿さ加減に呆れてしまった。哂ってみようかと思ったが、そんなことをして現状が変わるわけでもないので止めた。
「どうしてこうなっちゃったのかな……」
 ここに入れられたのはつい数時間前だ。その前は尋問と称するただ相手の嗜虐心を満たすためだけの拷問にかけられた。記憶は曖昧だがそれでも質問された覚えなどまったくない。
 手足の爪は全て剥ぎ取られ、訴えるように真っ赤な血を流し続けている。鞭で打たれた皮膚も裂けて悲鳴をあげていた。彼らは執拗にエトワールを痛めつけ口々に「悪魔め!」と罵ってきたが、エトワールにしてみれば彼らこそが悪魔の化身だった。
 しかし、それらの痛みや侮蔑の言葉などエトワールにとっては瑣末なことだった。
「エトワール、私よ、返事ができるならしてちょうだい」
 足音を響かせて、人影が近づいてきた。「……ソレイユ」エトワールは静かに親友の名を呼ぶ。身じろいだら少し鎖が鳴った。ソレイユは声よりも鎖の音に反応して、こちらへ駆けてくる。
「無事……じゃないわね。酷いわ」
 格子の前にしゃがみ込んで、口元を押さえた。
「そんなに痛くないのよ。大丈夫」
 笑って見せたが、上手くいかなかったようでソレイユは顔をしかめた。「そうなの」泣き笑いのような、中途半端な表情だ。
「一つ聞いて良い?」
 エトワールは霞む視界にソレイユの影を見ながら、掠れた声を出す。
「もちろん、私に分かれば良いけど」
「……月はどうなってる? ここからだと見えなくて」
 ソレイユは「月?」と首を傾げた。
「今日は……確か、新月じゃないかしら。出てなかったわ」
 その答えに、エトワールは今度こそ微笑む。手の届かぬ月は姿を消した。――もう愛しい人の幻影が重なることはない。あの人は確かに、エトワールの中に居る。
 ――リューヌ。私達、やっと一つになれたのね。
 そう思った瞬間、エトワールの頬を伝うものがあった。流れ落ちる一筋は血溜りに落ち、消えていく。
「どうしたの、苦しいの!?」
 目ざとく涙を見咎めたソレイユが血相を変えて格子に顔を押し付ける。エトワールにはむしろ、彼女の方が苦しそうに見えた。
「いいえ、いいえ……」
 エトワールは小さく否定する。私は今とても嬉しいの――言葉の代わりに血が吐き出された。咽る。傷口が痛んだ。血が喉に引っかかる。息苦しい。しかしそれをどうにかするだけの体力も気力も残ってはいなかった。再び血を吐く。また喉が詰まる。
 ああ、きっともう私は死ぬんだろう。
 思ったよりも静かに、冷静にその事実を受け止められた。この世界に未練などない。――私はきっと地獄に堕ちるわ。しかし神の御許へ行くなど吐き気がする。これで良いのだ。リューヌも地獄で待ってくれているだろうから。
「エトワール、私誰か呼んで……」
 ソレイユが泣いてくれている。エトワールは彼女の申し出にゆっくりと首を振った。呼びに行ったところで、どうせ誰も助けてはくれないだろう。それならば……
「あなただけに看取ってほしい」
 そう言ったつもりだったが、掠れた空気しか漏れなかった。徐々に意識が遠のき、視界が不明瞭になっていく。体は空気を求めるが、最早手遅れだった。
「エトワール、エトワール!」
 ついに視界が消える。
 最後に見たのは、美しい太陽の涙だった。