第一章 第十一節

「それは……いったいなんの冗談ですの? ジースが、ジースが」
 おぞましい獣の名でも口にするように、
「私の兄? そんな、そんなまさか!」
 最後は悲鳴に近かった。このときティアロを支配したのは、驚愕や困惑ではなく……生理的な嫌悪。あのような男が、自分と同じ血を持っているというのか。他者の気持ちに無遠慮で、地位や名誉に固執し、他人を見下すようなあの男が……兄。
「うそ……」
 認めたくない。認められるわけが、ない。言った人間が父でなければ処罰していただろう。
「うそだわ、お父様。こんなときにからかうのはよしてください」
「――ティアロ。驚くのも無理はないと思うが」
 思わず後ずさった体が書棚にぶつかる。そのままずるずると座り込んでしまいたかった。しかし人に弱った姿を見せることに抵抗を覚える。それは半ば本能のようなものだった。辛うじて踏みとどまり「うそだわ」もう一度呟いた。
「少し長くなる。そこに座りなさい」
 出来るだけ足に力を入れて――震えを悟られないように――ソファに座る。猛烈な嫌悪感は当分消えそうになかった。全身を覆う寒気にこっそり肩を抱いた。
 寒い。寒い。本当にさむい。どうにかなってしまいそうだ。この体をめぐる血が、あいつと同じ。つまりあの男もミンセットの一員ということだ。今すぐこの血という血をすべて抜き取り、洗い流してしまいたかった。肩を抱く指に力が篭もる。
(いえ……)
 もうひとつ、可能性が残されている。
 つまり――ティアロがミンセットではない、という可能性。二人そろってミンセット家に拾われ自分だけ娘として育てられているという、誰かの書いた物語のようなことがあったとしたら。「娘」は時として武器になる。さらに階段をのぼるための。
「より正確に言うならば、腹違いということになる。兄と言っても半分だけだ」
 ハッと顔を上げる。ティアロの疑惑を一瞬に消し去ってくれた父の言葉に深く安堵した。自分がティアロ=ミンセットであることは間違いないようだ。
「お前の母さんと会うよりも前の話になる」
 瞳を閉じる父を、じっと見つめる。
「当時、父さんもティアロと同じ学院で学んでいた。そこで彼女……ジースの母となるリーラと出会ったんだ」
 懐かしむように、悼むように、祈るように、その表情がかすかに揺れた。閉ざされた瞳の向こうには、ティアロの知らない世界が広がっているのだろう。
 ティアロにとって――いや、子どもにとって「父」とは「父」であり、どこまで行ってもいつまで経っても「親」だ。父にも、まさに今の自分と同じような学生時代があったことなど、滅多に意識しない。
 父の表情に「父」以外の存在を見て取って、ティアロは背中がむずがゆくなるような居心地の悪さを覚えた。
 今でもそのリーラという女性を想っているのか? 父が愛した女性は母ではないのか?
 だとしたら、ジースとティアロ。どちらが愛しい我が子かと問われれば、父はリーラの血を引く青年を選ぶのではないか。そんな疑念が頭をもたげる。ジースの肩を持つような発言が多いのは、そのせいなのか。
 心臓を鷲掴みにされたような不快感。酷く裏切られた気分になった。
「お母様のことは……」
 尋ねようとした言葉は重苦しい空気へと溶けていく。恐れが言葉を濁らせた。もし母に対する想いがなければ、ティアロ自身のこともちっぽけで取るに足らない存在でしかない。
「あの……その」「もちろんお母さんのことは愛している」
 再び発した声は、しかし父の言葉で遮られた。
「そしてお前のこともだ。ティアロ」
 名を呼ぶ声はいつになく力強く、優しかった。ティアロの心情に配慮してか、安心させるようにゆっくりと話す。
「この気持に偽りはない。それだけは信じてほしい」
 父の真剣な眼差しに、ティアロは身動ぎで応えた。
 にわかに沈黙が流れる。
「……リーラは貴族とは名ばかりの、小さな領地の娘だった」
 破ったのは父だった。
 再び語られようとする過去に、心臓は早鐘のごとく鳴り響く。小さく浅く呼吸を繰り返す。
「当然、私たちが一緒になることに周囲は大反対した」
 その光景が目に浮かぶようだった。今は亡き祖父母は怒り狂ったに違いない。
「当時の私には周囲の反対を押し切って彼女と一緒になるだけの力がなかった。だから、二人で約束したのだ。すべてを捨てて逃げ出そうと。この国を出て、名もない二人として共に過ごすことを夢みた」
 父の淡々した告白に膝が震え出す。ソファに預けた背は今にも崩れ落ちそうだった。
「しかしその夢は叶わなかった。私たちのことはミンセット家の耳に入り、彼女は私の両親によって学院を追われた」
 たかが地方領主の娘が、ミンセット一族に目をつけられてただで済むはずがない。その後の彼女の人生は閉ざされたと言っても良いだろう。人ひとりの人生を簡単に潰せるだけの力を、ミンセットという「名」は持っていた。
 ふとウィシュナの笑顔が思い出される。もうずいぶん遠い昔のようなかすれた表情に、ティアロはぎゅっと口を結ぶ。彼女は自分を罵るだろうか――お前が私を殺した、と。
「ジースの存在を知ったのはだいぶ後になってからのことだ」
 再び父の口から世話役の名が飛び出し、身を硬くする。
「彼女は学院を追い出されてしばらくした後、屋敷から姿を消し家族すらもその行方を知らなかった。ジースのことは、当時彼女と仲の良かった侍女が私にこっそり教えてくれたんだよ。恐らく生まれてくる子を貴族同士の諍いごとに巻き込みたくなかったのだろう。家を継いでからあちこちを探し回って、辺境の孤児院で暮らすジースをようやく見つけた頃には、リーラはすでにこの世の人ではなかった」
 悔やんでも悔やみ切れない、とその瞳が物語っている。
「それでお父様はジースを引き取った、と? 使用人として」
 親のそんな表情を見ていたくなくて、続きを促す。
「最初は援助だけだったのだが、リーラの面影が残った顔を見ていたらそのうち抑えが効かなくなってしまった。妻の助力もあってミンセットの使用人――最初はお前の遊び相手として迎え入れることに成功した。お前も昔はよく遊んでもらっただろう?」
「そんな昔のこと覚えていません」
 つん、と視線を外す。声に震えが少し出てしまった。父からは苦笑が返ってきた。
「とにかく、これがジースに関する経緯だ。答えになっているか?」
「ええ、十分すぎるほどに分かりましたわ」
 それともうひとつ、ティアロには気になることがあった。
「そのお話、ジースは知っているんですか?」
「知らないし、教えるつもりもない」父は頭を振って「この話自体知っている者も限られている。ティアロも他言無用だ」釘を刺した。
 言われずとも、ティアロも誰にも言うつもりはない。



 父の部屋から出たティアロの心は、しかし沈んだままだった。衝撃はしばらく抜けそうにない。
 仕事に追われる使用人の間をゆっくりと歩く。広い屋敷のどこにも行くあてはなく、突き当たればくるりと向きを変えてまた進む。見つめるつま先は最終的にどこへ向かおうと言うのか。それはティアロ自身にも分からなかった。
 ジースが両親から与えられた「価値」は想像した以上に高かったようだ。
 それは血の繋がりという、最も尊いもののひとつ。
 血筋や家柄にうるさい男がこの事実を知れば、さぞや歓喜するだろう。男子のいないこの家で、自分こそがミンセットを継ぐ者だと騒ぐかもしれない。それだけは我慢ならなかった。理性的で合理的な理由ではなく、純粋な嫌悪感から湧き上がってくる拒否だった。
「ティアロ、さっきからどうしたの?」
 投げられた声に、足を止める。顔を上げれば目の前に怪訝そうな母の姿があった。その後ろに控えている侍女もティアロのただならぬ雰囲気に心配そうに眉を寄せている。
 派手ではないが上品なドレスに身を包み、高貴な血筋を思わせる凛とした佇まいは今も昔も変わっていない。しかし多少の皺が刻まれた目尻は柔和で、どこか不思議な親しみやすさがあった。それ故か使用人からも慕われている。
「お母様……」
 その細く白い手を握る。たいそう情けない顔をしていたに違いない。その証拠に母は驚いて「まぁ、本当にどうしたの?」そっと頭を撫でてくれた。手のひらから伝わる温もりが暖かくて、刹那、目頭が熱くなる。
 このまま母に抱きついて、大声で泣いてしまいたかった。流した涙は父のことも、ジースのことも、そしてウィシュナのこともすべて綺麗に洗い流して、何もなかったことにしてくれるのではないか。全ては悪い夢だったと。そんな子どもじみた想像が脳裏をよぎった。
 しかし込み上げてきたものはぐっと飲み込んで「いえ、少し考え事をしていまして」呟いた。
「先ほど、お父様と話をしてきたんです。ジースが……」
「ジースが?」
 心なしか母の声が上ずったように聞こえた。過去を知ってしまったティアロの勝手な思い込みかもしれないが。ジースのことは知っているというが、彼のことをどう思っているのだろう。母にとってはただの他人である。一介の使用人にすぎないのか、それとも特別な感情を持っているのか。
「ええ。ジースがやっぱり勝手をして困るという話を」
 口をついて出たのはまったく別の嘘。さっきの今で、もうこれ以上何かを受け止められる自信もなかった。
 小さく笑みを作る。今のティアロができる精一杯の微笑みだった。
「困らせているのはティアロではなくて?」
 ふわりと微笑する母。撫でていた手を背中に回すと、軽く抱きしめた。
「まだ事件のショックも抜けていないでしょう? あまり考えこんではいけませんよ。無理はしないでちょうだいね」
 ティアロは素直に頷いた。自分を心配する声のあたたかさが、今日だけは身にしみた。