第一章 第十節

 物事の良し悪しというのは――人々の価値観というのは、常に「時代」という大きな枠組みの中で形成される、非常に移ろいやすいものである。
 神々が大地を直接に支配していた時代であれば、ミンセット家など取るに足らぬ血筋であったかもしれない。人殺しが美徳であった時代であれば、もしかしたらウィシュナを殺した犯人は英雄として称えられたかもしれない。
 そうした事柄は、誰かが特定の人物に、その時代の価値観によって育まれた規則規律を「適用」させた結果に過ぎないのだ。


「珍しいな、お前が私の部屋に来るなど」
「えぇ、ちょっと」
 帰宅したティアロは、善は急げとばかりに父の自室へと赴いた。本棚と執務机しかないが、どことなく重厚な空気が漂う部屋だ。肺を圧迫されるようなこの威圧感が、ティアロは昔から苦手だった。
 父は驚いていた様子だったが、
「どうした? 顔色が少し悪いようだが」
 怪訝そうな父に慌てて首を振る。まさか学院でのことを言うわけにもいかない。父に余計な心配と、干渉の余地を与えてはならない。
「そんなことありませんわ。そんなことより、ジースについてお話したくて」
「ジースだと?」
 話を切り出すと途端に渋い顔を作る。
「また喧嘩でもしたのか?」
 ティアロは笑みを作り、
「いいえ、喧嘩ではありません。どうしてわざわざ平民を雇ったのかと思いまして」
 何でもないように装って、続きを促した。幼い頃からこの身に染み付いた「愛想笑い」は誰にも負けない自信がある。
「優秀なら雇う。それだけだ」
 父の言葉に「優秀?」眉を跳ね上げる。
「けれどお父様。彼はここに来る以前、別の貴族に雇われていたというわけでもないと聞いてますわ。私の世話役としてはいささか経歴が不足しているようにも思いますけど……そんな彼をどうやって見つけたというんです? 経歴も実績もない彼を優秀と言うのは、どういうことなのでしょう」
「それは……」
 珍しく言いよどむ父に、妙な胸騒ぎを覚えた。ティアロが聞きたいのはただ一点、「ジースに認められた価値」である。最初に投げた質問はそれ以上を問うものではない。ティアロにとっては非常に興味のある話題だが、父にしてみれば採用条件を娘に教えるだけの、単なる世間話か思い出話の類だと軽く考えていたのだが――。
 父は机の上にひじを置き、組んだ指の上にあごを乗せてまぶたを閉じている。頭の中で物事を整理しているときに見せる、父のクセだ。ちなみに、立っているときは手であごに触れる。
 それはさておき、一向に口を開く気配のない父に「お父様?」呼びかけると、ようやく目を開けた。
 瞳にちらつくのは――苦悩。五十歳にはまだ届かない父だが、今この瞬間にものすごく老け込んでしまったような気がした。
 ティアロの胸騒ぎはさらにハッキリしたものになる。聞いてはいけない――聞かない方がいいことなのだろう。単なる採用条件の話ではなく、もっと根深い何かが、そこにはあるのかもしれない。
 慇懃無礼で嫌味で人の考えや情緒をまったく理解しないあの男は、ティアロにとってはただの口うるさい使用人でしかない。
 父が見ているジースとは、いったい何なのか。それは自分のまったく知らない新しい一面なのだろうか。それとも、ただ見方を変えただけで、コインの表裏のように結局は地続きの性質なのか。
 聞きたい、聞いてはいけない、聞かなければならない――相反する思いがぐるぐると脳を駆け巡る。
「ふぅ……む」
 父の口から弱いため息が漏れた。その弱い声が、思考の波からティアロを引き上げる。
「聞きたいのか?」
 やがて諦めたかのように、父が尋ねてきた。重苦しい空気が肌にまとわりついて離れない。「えぇ――」無意識に自身の肩を撫で、うなずく。
「……お聞かせ願えます?」
 それでも父は幾分か躊躇っていたが、
「彼は――」
 と、ついに話始めた。
 とても静かな、ティアロがこれまで聞いたことのない低い声で、
「彼は、お前の――兄だ」
 しぼり出すように呟かれた言葉に、ティアロはただ「え?」意味のない言葉を漏らすだけだった。



「そいつ」は人目を避けるように移動していたが、事前にある程度の行動範囲は把握してある。見つけるのは簡単だった。全身を覆うローブは自身の姿形を隠すにはちょうど良いかもしれないが、王都でそんな格好をして歩けば嫌でも目立つ。追われているのだから普通ならもっと警戒してもいいものだが、そんな素振りはまったくなく、拍子抜けしたほどだ。
 今まで警備隊が「そいつ」を見逃していたのも、無関心が服を着て歩いているようなスラム街の住人の中に紛れ込んでいたからだろう。でなければ、こんなにも薄汚い存在が生きていて良いわけがない。
 あのような底辺で這いつくばってただ生きているだけの人間と――マチルディアと、ミンセット家の大事な一人娘であるティアロお嬢様が付き合いを持っているなど、非常に許しがたい――否、許してはいけないのだ。
 恥知らずなマチルディアは、向かいの通りのさらに奥の路地へ入り込み、熱心な様子でごみの山を探っている。なんと汚らわしいことか。残飯を掴んだ手でお嬢様に触れたのかと思うと気が狂いそうだった。何故あのような存在が許されている? あんなのは世界の生んだごみだ。ごみは排除されなければならない。
 かみ締めたくちびるがギリッと音を立て、握った拳が白くなる。怒りによって身が震えていた。切れ長の瞳はますます鋭さを増し、薄汚いごみを漁る汚らわしい女を遠くから睨み続ける。
 ちょうど仕事が休憩に入る時間だ。食事街はどこの店も盛況で、通りには空席を待つ人の列も見られる。自分に気づくことはまずないだろう。はたから見れば喫茶店の外テーブルでコーヒーを飲んでいる一介の客に過ぎず、人の流れも途切れないため視界も悪い。
 ――なのに。
 ジースは息を呑む。
 先ほどまでごみを漁っては腐った残骸を口に放り込んでいたマチルディアが、じっとこちらを見ている。
 ……いや、見ているはずがない。
 たまたまこの方向に視線を向けているだけ――そう自分に言い聞かせるも、肌が、自分を見つめる確かな視線を感じている。ローブの下に隠されているはずの瞳に射抜かれて、ぞわりと背筋が粟立った。
 気づかれるはずはない――だが一度突き刺さった視線の刃は容易には抜けず、ジースをその場に縫い付ける。
 ――にぃ。
 マチルディアは口角を持ち上げて、嗤っていた。何故こうも離れている場所で彼女の表情が鮮やかに判断できるのか分からなかったが、確かにこちらを見て、嘲笑を含んだ笑みを浮かべている。
 そしてゆっくりと口を動かして、

 ……い つ で も 来 な さ い 、 ぼ う や。

「っ――!」
 悪寒が最高潮に達し、思わず席を立つ。テーブルが揺れ、一口も飲んでいなかったコーヒーがぱしゃりと床を濡らした。周囲の動揺も目に入らない。気づけば、肩で息をしている自分が居た。
「あの……お客様? 大丈夫ですか?」
「――気にしないでくれ」
 店員を一瞥してマチルディアへと視線を戻すと、もう彼女はそこには居なかった。見失ったことに刹那心臓が跳ねたが、事前に警備隊には連絡している。警備隊連中の顔などいちいち覚えてはいないが、私服でこの雑踏に紛れているはずだ。余程の愚鈍でない限り――スラムでは一度取り逃がしているが――すぐにマチルディアは見つかるだろう。「街中」ならばまだ、彼らに地の利がある。
 ジースはそっと喫茶店を後にする。
 マチルディアは危険だ。得体が知れないという問題ではなく、動物としての本能が告げている。危険だ、近づくな――。
 ぎり、と歯が鳴る。
 ミンセットにそのような穢れた血が近寄ることは、耐え難い苦痛だ。早くお嬢様から遠ざけなければいけない。
 ジースの頭の中では、ただそのことだけがぐるぐると巡っていた。