第一章 第九節

「ティアロ様、いかがなさいました? ずいぶんとお怒りのようですが」
「怒ってないわよ。いちいちうるさいわね」
 にらみつけると、ジースはそれ以上何も言わなかった。ただ肩をすくめるだけで、その「やれやれ」とでも言いたげな仕草が、カチンと来る。
「何よその態度は。文句があるなら言いなさいよ」
 完全な八つ当たりなのは分かっているのだが、つい語調を強めて詰ってしまう。それでもジースは何も言わなかった。ティアロは鼻を鳴らすと馬車に乗り込む。
 マチルディアの元へ行こうと――そして、あの空気から逃れようと――授業が終わったと同時に教室を飛び出してきたのだが、門で待ち構えていたジースにあっさりと捕まった。普段だったら彼などお構いなしなのだが――ファーノのこともあり、あまり騒いで注目を集めることはしたくなかった。だから大人しく馬車に乗ったのだが、やはり邪魔されたという感覚が拭い取れない。
 帰ると決めたのは確かに自分だ。しかし嫌いな人間が何をやってもダメなように、ジースがどう動いても何を言っても気に障ってしまうのだろう。
 馬車の振動に身を任せながらティアロは窓の外を見る。無意識のうちに、視線はあの黒いローブを探して彷徨う。けれどそう簡単に出会えるはずもない。特に目に留まるものもなく景色は流れていく。人々の喧騒も木々のざわめきも、皆ひとつにまとまってぐるぐるとティアロの周囲を渦巻いているようだった。すべてが妙に遠く、現実感に乏しい。

『残念ながら、人の価値というのは他人が決めるものです』

 不意に、ジースの言葉がよみがえる。
 自分の価値を決めるのは他人。ティアロはその言葉の片鱗を垣間見た気がした。
 たとえば、ティアロはミンセットではない――そう喚く者がひとりだとしたら、単なる世迷いごとでしかない。しかし、それが何百人、何千人と居たら? もしくは、ティアロの両親が「お前はミンセットではない」と言い出したら? ティアロがいくら「ティアロ=ミンセット」であることを主張したところで、彼らが認めなければそれは虚しい自己主張でしかないのではないか。
 そこまで考えたとき、ふっと肌が粟立ち、腹にキリキリとした痛みが走る。緊張や感情の昂ぶりが腹痛を起こすことはよくあった。その痛みに意識が急速に現実へ引き戻され、周囲の音も色も鮮やかに認識できるようになった。
 ティアロは眉を寄せる。
 今、自分が考えていた諸々の仮定――それらは一笑のもとに片付けられるようなものではない。現に、学友たちはティアロを殺人鬼を見るような視線で刺す。いや、それは今は忘れよう、と頭を振った。
「ジース」
 御者台に座る背中に声を掛ける。馬車の音に紛れて「何でございましょう?」返事はすぐに聞こえてきた。
 ジース=ナシャス。ティアロの世話役などという立場にありながら、ただの平民出の青年だ。よくよく考えてみれば不自然なことだった。ミンセットほどの大貴族ともなれば、世話役も当然貴族であるのが普通だ。
 彼の過去を、ティアロは知らない。興味を持ったことすらなかった。口うるさくて融通の利かない世話役だと、漠然と邪魔に思っていただけだ。ジースは、周囲からどのように品定めされ、価値を決められて今の立場に居るのだろうか。そういえば、両親は妙にジースの肩を持つ言動をする。少なくとも二人はジースを認めているということだろう。
(小説でよくある使用人と主の恋、とか……いやいや、それじゃお父様が許すはずないものね……うーん)
 滅多に本は読まないが、恋愛を主題に置いた物語は好きだった。ウィシュナとも何度か図書館へ足を運んで互いのおすすめを紹介しあったことがある。今となっては「よき思い出」となってしまった日常の一ページだ。
「ティアロ様、お体の具合が悪いのですか?」
 心配そうな声に我に返る。少し考え込んでしまったようだ。呼んでから不自然に間を空けてしまった。
「そうじゃないわ。ただ、あんたが昔何やってたのかなって思って」
「私が、でございますか?」
 まさかそう来るとは思ってなかったのだろう。心底驚いたように声を上げた。
「あんたって平民出よね? どういう経緯でミンセットに雇われたわけ?」
「ティアロ様にお聞かせするような話は何もございませんよ。ただご両親が望まれ、私自身もそうしたいと思ったのです」
 ジースの返答に、腕を組んで首をひねる。そもそも「両親が望んだ」ということがおかしい。平民と貴族。接点など皆無だ。彼はティアロが物心ついた頃にはすでに、傍らに居た。最低でも十年以上はミンセットに仕えている計算になる。幼い頃はこの少し歳の離れた世話役を「お兄様」などと呼んでくっついていたが……おぼろげに昔を思い出して、ぶる、と肩を震わす。今では口が裂けてもそうは呼べない。
「だから、どうやって私の両親と知り合ったのよ。普通有り得ないでしょ、そんなこと」
「有り得てしまったのですから、仕方ありません」
 手綱を操りながら深々と――ため息をついた。質問を繰り返すティアロに疲れたのかと思ったが、それ以上に何かを嘆くようなトーンが含まれているように感じられた。
「私も詳しい経緯は分かりかねるのです。物心ついた頃には、既に旦那様や奥様と面識がございましたので」
「ふぅん……そう」
 それ以上尋ねることもせず、馬車の外を流れる景色に視線を戻した。
 ジース自身がどうこうと言うよりも、彼の両親とミンセットが繋がっていたと考える方が、確かに違和感はない。
 彼の過去が気になるのではなく、ティアロの興味は「ジース=ナシャス」という平民の青年がどのような価値を与えられて今ここに居るのかという一点に注がれている。
 とにかく、この話は両親に聞いた方が早そうだ。
 視界に入ってきた屋敷を見上げながら、小さく頷いた。



 マチルディアはスラム街の細い裏道を縫うように進んでいた。淀んだ空気が、マチルディアの動きに合わせて鈍く動く。まばらに人は居るようだが、あまり生気の感じられない瞳を虚空に向けてぼうっとしているだけだった。マチルディアのことを気に留める余裕のある者などここにはいない。
 遮蔽物の作る影に身を溶け込ませながら、じっと耳を澄ます。
 彼女を探して回る足音はもう遠いようだ。
「ふふ、必死ねぇ――」
 追われる身でありながら、その口元は笑みの形に緩んでいる。それはかくれんぼを楽しむ子どものようでもあった。離れた場所から「居たか?」「見つかりません」などのやり取りが聞こえる。検討違いの場所を探す鬼たちの姿を想像すると、笑みはいっそう深くなった。
 マチルディアは追われることに慣れていた。それは今のような捜索・追跡であったり、あるいは生まれ故郷を追われたときのような迫害であったりと様々だ。
「まぁ、面倒なことになる前に逃げて正解ね」
 今朝がた、自分の棲み家にやって来た警備隊の連中――足音が近づいてきた段階で、反射的に身を隠したのだ。長年の経験から出た衝動的な行動であったが、それが功を奏したようだ。ゴミ捨て場にやって来た彼らは、明らかにマチルディアを探していた。もっとも――そのような条件反射が身についてしまった今までの生活に苦笑を禁じえないが。
 しかし、なぜ今になって警備隊が自分を探しているのか、という疑問があった。ただ、想像はつく。
 大方、「事件現場に寝泊りしている怪しい女が居る」とでも通報されたのだろう。マチルディアも特に隠れていたわけではないので、そういった事態になるのも時間の問題だと認識はしていた。
 もちろん自分は殺人犯などではないが、捜査に非協力的なのはメッセージ紙片の件でも明らかであるし、何よりも見方によっては殺人鬼よりも忌み嫌われる存在だ。捕まるわけにはいかない。たたかれれば、出た埃で咳き込む者も出てくるかもしれない。
「この街もそろそろ潮時か」
 事件が起こった直後に逃げなかったのは、ウィシュナに対して多少の後ろめたさがあったからかもしれない。しかしそれももう終わりだ。
 ティアロには悪いが、何らかの火の粉が降りかかって来る前に出た方がいい。残念ながらこの事件は――ある一点において――永久に迷宮入りだろう。
 随分と遠くなっていった足音におざなりな気を配りながら、マチルディアはさて、と視線をめぐらした。
 誰も彼女が追われているなどと思わないような軽さで、呟く。
「昼食にしようかしらね」
 ぐぅ、とのんきな音を上げる腹をさすった。