第一章 第八節

 マチルディアは目を覚まして一番に、大きく伸びをした。その拍子に、背を預けていたゴミ山の一角がぱらぱらと崩れ落ちる。朝から元気なハエたちがうるさく飛び回って、落ちていったゴミに群がっている。
 首をぐるりと回して、睡眠中の凝りをほぐす。
 ――嫌な夢を見たわ、まったく。
 今朝起きるまで夢は続いていたが、本当に最悪だった。楽しさのカケラもない。
 十分に凝りをほぐしたあとは、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。ともすれば高ぶってしまいそうな感情を静めるために。
 奥歯を舌でなぞりながら、ゴミに預けた背を離す。首からぶら下げた漆黒の十字架が揺れた。
 マチルディアがもっとも毛嫌いしている、昔の夢だった。――幼い少女が泣き喚いている。地べたに座り込み、救いを求めるかのように手を虚空へ伸ばしながら、ただ意味のない言葉を発し続ける。少女はまだ分かっていない、自分たちを救ってくれる存在などこの世に居ないということを。
 自分たちは生れ落ちたその瞬間から――見捨てられている。自身でさえ愛せない存在を、いったい誰が愛し、手を差し伸べてくれるというのだろう。 
 夢の中で泣き続ける、幼い少女の幻影がちらつく。遠い日の残響がまざまざと思い出されて、顔をしかめた。
 どうして今になってこんな夢を見たのか。黒の十字架なんて受け取ったせいか、それとも、あのティアロという少女のせいだろうか。
 あの少女と自分は似ている、とマチルディアは思う。生い立ちや姿形はまったくと言っていいほど接点などないが――自分は孤独だ、と強く思い込んでいるところが、特に。生まれながらにして備わっている「血筋」や「家柄」を否定し、ただ「自分」であることを主張する――若い頃の自分に、そっくりだ。
 マチルディアはのそりと立ち上がる。
 新しいゴミ山ができている。昨日のうちに捨てられたものだろう。見れば程よく腐敗した食物が鼻の曲がるような悪臭を放ってマチルディアを呼んでいる。ふらふらと近寄って、そのひとつを口に運んだ。こんな場面をミンセットのお嬢様が見たら青ざめるに違いない。そしてジースとかいう世話役らしき男は、血相を変えてマチルディアを罵るだろう。あまりに有り得そうな光景に、思わず苦笑をもらした。
 彼女は一日中ここに居るわけではない。日中のほとんどは街の裏路地を転々とし、残飯を漁る。その間にここに捨てられていくゴミたちを、朝食として頂くのだ。
 いくら誰もが黙認するゴミ捨て場と言えど、マチルディアのような怪しい人物が居たのでは誰も近寄らないだろうと考えてのことだった。実際、うとうと眠りかけているときに誰かが来たことがあるが、マチルディアの姿を認めるや否や踵を返して逃げ去っていったことがある。貴重な食料を逃した――かどうかは分からないが、それもあって最近では特に出歩く時間を多く取っている。
「さて……行こうかしらね」
 朝食もそこそこに、フードを改めてかぶり直す。
 今日のように風のない日は好きだった。少し長めに出歩いてもいいかもしれない。まだ低い位置にある太陽を見つめて、目を細める。
 あの美しい太陽を創造した誰かは、何故自分たちをこうも醜く創ったのか。
 などと、らしくない卑屈めいた思いをめぐらしていると、うるさくこちらに近づいてくる足音が耳に届いた。



 いつもと、何かが違う。ティアロは学園へ来てからずっと違和感を覚えていた。しかし見た目にはいつもと変わらない「平和」な学園だ。授業もつつがなく始まり、いつも通りの退屈な内容。
 ファーノ=レイストに招待されたあの夜会から、二日経った。
 会の翌日は休日だったため、ティアロはさっそくマチルディアの住処へと赴いたのだが……残念ながら彼女は留守だった。代わりに警備隊の姿が目に付いた。なるほどこうも警備隊にうろつかれては、マチルディアもゴミ捨て場には居づらいのかもしれない。警備隊も最近はすっかり近寄らなくなっていたゴミ捨て場だが、初心に帰るということなのだろうか。犯人は現場に戻るという有名な言葉もあることだし、と心の中で呟いた。
「ご機嫌よう、何か進展はございまして?」
 近くを歩いていた警備隊員に声を掛けてみた。振り返った男は鬱陶しげな表情をしていたが、ティアロが提示した学生手帳を見た途端に姿勢をただし、敬礼をする。
「み、ミンセット家の……あ、その、進展は何も」
 警備隊というのは民間の組織だ。普通、ティアロのような大貴族と話をすることもないし、そもそも接点など持つことは一生ない。事件が発生した当初にティアロが事情を話して聞かせたのは特殊な事態であり、ジースに言わせればそっちの方が「事件」らしい。
「そう。何かあれば必ずミンセットにも連絡を入れてちょうだい。もちろん私――ティアロ宛てよ」
「は、はい。かしこまりました」
 恐縮しきった様子の警備隊員を残し、ティアロはゴミ捨て場を去った。これ以上居ても仕方ない。
 風が吹き、悪臭を運んでくる。咄嗟に鼻を覆った。
 やはりこの臭いには慣れない。体に臭いが染み付いてしまいそうで、無意識に早歩きになる。
 ――そのまま昨日は会えずじまいで、今日は朝から授業。昨日の警備隊のことも気になる、学校が終わったらすぐにでも会いに行くつもりだった。
 以前屋敷に招いたとき、マチルディアはこの街の住人ではないと言っていた。もし彼女が街を出てしまえばティアロに追う手段はなく、手がかりも途絶えてしまう。
(ああ、だめよ、落ち着かなきゃ……)
 机の上でぎゅっと手を握った。
 そわそわと落ち着かない理由はマチルディアのことだけが原因ではない。
 あるのかないのか分からないような、ふわふわと漂う違和感。その微妙な空気が肌を撫でるたびに、居心地の悪さを感じる。これは視線、だろうか。
 ちら、とファーノ=レイストの背中を盗み見る。後ろから見る限りは普段と変わらない様子で授業を聞いているようだった。教師の言葉を静かに聞いている。先日の激情がうそのようだ。
 自分も少しは落ち着かなくては。
(たとえば学園の誰かが犯人だとして……筆跡を真似るには私のノートを写すのが一番早いわ)
 チョークと鉛筆の音に満たされた教室。
 ファーノの背中と黒板を交互に見つつ、思考をめぐらす。
 ティアロが教室を離れている間にノートを盗み見て書き写す――出来ないわけではない。しかし、自意識過剰でもなんでもなく「ティアロ=ミンセット」のことは皆が見ている。誰かがミンセットの持ち物に触れる、たったそれだけのことでも噂の種になったりするのだ。今日とて、ティアロが自席に着くまでの間に噂話を十個は耳にした。誰それが付き合い始めただの、何家が民衆に反感を持たれてるだの、大半はティアロにとってどうでもいい話題だ。
(んー……教師?)
 黒板に向かっている教師を見つめる。教師の中には、生徒がきちんと授業を受けているかチェックするために定期的にノートを回収する者もいる。それなら自然かつ噂にもならず、ティアロの筆跡を写すことができる。
 だが、ウィシュナが亡くなってから近づいてきた教師など別にいない。
 教師は国が厳選した人材で、(建前上は)そういった野心等は一切持たない者ばかりであるし、仮に狙いがあってウィシュナを殺したとしても、決してティアロに取り入ることはできない。特定の生徒と親密になることは禁止されているからである。それは男女間の関係だけに留まらない。学園側にばれたら即刻解雇、今後一切教師としての職――家庭教師も含めて――には就けなくなる。
 教師にとってはリスクの方が高いと言える。生徒の誰かに秘密裏に頼まれたとも考えられなくはないが――そうするとやはり怪しいのはファーノだろうか。
(はは……私はどうしても彼女を犯人にしたいのかしら)
 思わず苦笑を漏らした。思考は堂々巡りだ。
 ちょうど授業の終わりを告げる鐘が鳴った。教師のお決まりの台詞「では、今日はここまで」を待たず生徒たちは机の上を片付け始める。ノートを取り上げた拍子に「あっ……」筆記具が落ちてしまった。乾いた音を立てて床とぶつかり、ころころと転がっていく。筆記具の行き先を視線で追っていると、それを取り上げる手があった。
「落ちましてよ、ティアロさん」
「……ファーノ」
 視線を持ち上げると、豊かな金髪を背中に垂らしたクラスメイトが満面の笑みで筆記具を差し出してきている。「レイストのやつ……」という囁き声がどこかから聞こえてきた。
 筆記具を受け取り「どうもありがとう」形だけの礼を述べる。ついこの間「誰があんな女と!」と泣き喚いていたのがうそのような表情だ。きっと腹の底では苦々しく舌でも出しているのかもしれない。
 さっと片付けて、立ち上がる。次の授業は別教室へ移動だ。ファーノを置いてさっさと教室を出る。と、当然と言わんばかりに彼女もついて歩き出し、肩を並べる。同じクラスなのだから当然次の授業も一緒だ。ティアロは顔をしかめた。
「ところで――私、少々気になることがございますの」
 しかしそんなティアロの様子などお構いなしに、ファーノはどことなく上機嫌に切り出した。
「何よ?」
 対するティアロは素っ気無い。
「最近、ウィシュナ=ディーニが殺された場所へ足を運んでらっしゃいますわね?」
 す、と顔と近づけてくる。
「――そうね」
 少し迷ったが、頷く。何が言いたい?
「ご存知? あの汚らしい場所に棲んでいる女を」
「ええ、居るわね。それが何?」
「ティアロさん、こうはお考えにならないのかしら、と思って」
 妙にもったいつけたように笑うファーノに若干苛立ちながら「だから、何よ?」先を促す。
「ウィシュナ=ディーニを殺したのはあの女だ、って。普通はそう思いませんこと? あんな場所に棲んでいるなんて、まともじゃありませんわ」
「それは」
 咄嗟に反論しかけて、止まる。考えたことがないわけでは、なかった。だが、彼女には理由がない。ウィシュナとマチルディアの間にはなにひとつ、接点がない。
 言い聞かせるように内心で繰り返し、
「……それは、あなたの偏見よ」
 ファーノに答えた。早く次の教室に着いてくれないか。会話が億劫だ。
「庇いますわね。……お屋敷にもご招待なさったようですし、仲が宜しいのですね。ティアロさんともあろう人が、あのような浮浪者とどのようなご関係かしら」
「妙に突っかかるわね、あなた本当に、何が言いたいわけ?」
「いえ、ただ――」
 唇の端を持ち上げる。
「次は誰を殺すのか、相談していらっしゃるのかと思いまして。あの汚らわしい女と」
「……はぁ?」
 突然何を言い出すのだ、この女は。素っ頓狂な声を上げたティアロを廊下を行く生徒たちが振り返ったが、すぐに視線を戻していった。
「あら、違いますの? 正体不明の人間を使って、邪魔な方を――不要になった方を始末していらっしゃるのかと思いましたわ」
「私がウィシュナを殺したと、言いたいの?」
 それが当たらずとも遠からずという事実があるだけに、なんとも反論しづらいが、断じてウィシュナを邪魔に思ったことなどない。まったくの見当違いな見解に怒るタイミングも逸してしまった。
「あら、怖い顔なさらないで。私も気をつけないと消されてしまいますわ」
 わざとらしく両手で顔をはさんで、首を振る。
 こいつ――額に青筋が浮かんだ気がする。ファーノはもう、ミンセットとレイストという「役割」を捨てたのだ。貴族としては失格だが、彼女の性格を考えればそれは至極当然と言えた。プライドが高く、自尊心を傷つけられるのを嫌う。思わず、うらやましく思った。そうも簡単に「貴族」という服を脱いでしまったファーノに対して。
 ここでやっと次の教室に到着した。
 ティアロは教室を見回して――今日付き纏っていた違和感の尻尾を掴んだ気がした。
 クラスメイトたちの視線が、どこか遠巻きなのだ。ファーノを見ると、素知らぬ顔で席につく。――こいつ、言いふらして回ったわね。信じる方も信じる方だわ。
 ティアロは唇をかんで、自分の席についた。