第一章 第七節

「ジース、あんた何してるの?」
 話が終わると早々に帰宅していったマチルディアを外まで送り、帰ってきた途端、忙しそうに駆け回るジースの姿が視界に入った。こうしているとちらちらと鬱陶しく飛び回る小蝿のようだ。
 大量の掃除道具を持ち出して廊下を走り回っている世話役は、疑問顔のティアロに「掃除ですよ、ティアロ様」と見れば分かることを口にした。こちらの意図を理解する努力くらいしてほしい。
「なんでいきなり掃除なんかしてるのかって聞いてるのよ。ほかの侍女まで巻き込んで」
「そんなの決まってるじゃないですか」
 何故そんなことを聞くのか理解できない、とでも言いたげな態度だ。
「あんな不気味で不潔な女が歩いた後ですよ? お屋敷の汚れを落とさないでどうするんですか。ティアロ様、そこはまだ汚いままなのであまり歩かないでください。ああ、お部屋も消毒しますからね」
 ――いったんお前の頭の中も消毒した方がいい。
 のど元まで出かかった言葉を深呼吸と共に吸い込んで、大げさに息を吐き出した。以前、ウィシュナに対する暴言(ジース本人はそう思ってないだろうが)をティアロに怒られたというのに、今度はマチルディアを貶すこの神経と思考回路が、もはや別種の生物のように感じられる。
 この男の世界で唯一価値のあるものは、「血筋」あるいは「家柄」しかないのだろうか。
「ティアロ様、お分かりに」「あんた、本当にいい加減にしなさいよ」
 ジースの言葉尻に怒りの声をかぶせる。
「マチルディアは私の友人と言ったはずよ。それを何? それ以上言うようだったら許さないわよ」
 ティアロが言うと、今度はジースが息を吐いた。「いいですか、ティアロ様」聞き分けのない妹を宥めるような、そんな声で反論する。
「ティアロ様は、ミンセット家のご息女でございますよ。生まれながらにあらゆるものを持ち、また、手に入れられる可能性があるのです。
 それを何故、あんな下々の者たちと付き合って、ご自分の価値を落とすような振る舞いをするのですか? もっとご自分の『価値』を大事になさってください」
「私の『価値』ですって?」
 眉を跳ね上げる。
「そんなものは、私が決めるわ」
 ティアロの行く手を阻むように向かい合うジースを押しのけて、部屋への道を辿る。侍女たちはどうして良いのか分からないといった風に、ただおろおろして二人を交互に見比べていた。
「残念ながら、人の価値というのは他人が決めるものです」
 静かなジースの声が背中にかかるが、ティアロを振り向かせるだけの力はなかった。



 人生で最も長い九日を過ごし、レイスト家の華やかな夜会を訪れた。力を誇示するかのような煌びやかさ。手入れの行き届いた庭園の一角はこれでもかと飾り立てられ、来訪者を驚かせていた。財力を見せつけるには金を持っているだけでは足りない。それを使って常に着飾ることが他者への威圧となるのだ。
 ティアロは憂鬱な息を吐いた。
 寂れた裏路地とは正反対の空気。ティアロの住む世界はもちろんここだが、どこか居心地が悪かった。
 着飾った貴族たち。最近力をつけてきたレイスト家へ探りでも入れに来たのか、かなりの数に上っていた。両親は既に他の貴族達とどこかへ消えていったようだ。
 彼らはティアロに気づくと極上の愛想笑いを浮かべて近づいてくる。精一杯「ティアロ=ミンセット」らしく返すが、ファーノが気になってずっと落ち着かない。学友も何人か来ているようだ。共犯か? と疑っていけばキリがなかった。
「くれぐれも、ファーノ様と良いご関係をお築きくださいね」というジースの期待には応えてやれそうにない。応える気もないが。
「ティアロさん、せっかく来ていただいたのにご挨拶が遅れてごめんなさいね」
 ワイン片手に立ち尽くしていると、ようやくファーノが姿を見せた。優雅な深紅のドレスに身と野心を包んだクラスメイトは、満面の笑みを浮かべている。その容姿と相まって見る者の心を開かせるような笑顔だが、ティアロにはむしろ逆効果とさえいえた。
「どうです? 楽しんで頂けてますか?」
「……そうね。想像以上に豪華でビックリしてるわ」
 惜しげもなく注がれたグラスワイン。遥か遠くロウレート地方の最高級品だ。少しだけ、口にする。本来ならば少し甘いはずの後味は、ティアロの気持ちを代弁するかのように苦味を舌や喉に染み込ませていった。
「レイストのパーティなんて、もっと質素かと思った」
 唇を舐めてから素っ気なく付け加えた。驚いているのは本当のところだが、まだまだミンセット家とは釣り合わない。ティアロ=ミンセットはファーノ=レイストよりも上に立っている。そのことをはっきりさせてやらねばならない。
 しかし――当然というべきか――この言葉がファーノの気に思いっきり障ったらしく、
「……ミンセットのお嬢様に楽しんで頂けてるのでしたら何よりですわ」
 口調は丁寧だが額には青筋が浮かんでいる。顔が赤いのは紅とアルコールのせいだけではないだろう。内心、舌打ちのひとつや二つしていそうだ。
「楽しい時間をプレゼント出来るよう頑張った甲斐もありましてよ」
 親に何か言われているのか、ファーノは一向に立ち去ろうとしない。いくら取り入ろうとしても、ティアロの隣は絶対に空かないのに。
 ファーノの言葉に耳を傾ける素振りを見せつつも、頭の中はウィシュナの手紙のことでいっぱいだった。
 他人の字を真似ることはそれほど難しくはないだろう。クラスメイトなのだから、ティアロの字を盗み見る機会はいくらでもある。それほど特徴のあるクセも持っていない。そんなに長い手紙ではなかったし、雰囲気だけ似せれば誰も気づかないだろう。
 問題は、そうしてウィシュナを呼び出して、殺して……遺体をどこに持ち去ったのか。警備隊が街中探したのだ。それでも見つからないのだから、もうここにはない可能性が高い。
「……そうしたら、お父様ったら酷いんですの。こともあろうに……」
 ファーノの言葉が思考を遮る。こんなにも他人の声が邪魔だと思ったのは、ジースの小言以外では初めてだ。
「ちょっと黙っててもらえる? 考えごとがあるの」
 一瞥したファーノの顔は今度こそ怒りに染まり、肩を震わせていた。ぎゅっとドレスの裾を握りしめ、唇を噛んでいる。
「そ、そうですか……お邪魔して申し訳ありませんね、ごめんあそばせ!」
 ふんっ、と乱暴に裾を翻して去っていく。ファーノはこれで、第二のウィシュナにはなれないということを悟っただろうか。
「はぁ……」
 ティアロはワイングラスをテーブルに置き、ため息をつく。
 ミンセット家のティアロではない。
 自分はティアロ=ミンセットだ。
 ウィシュナだけがそう扱ってくれた。ウィシュナの声が聞きたい。彼女の親しみが恋しくて懐かしくて、涙が出てきそうだった。
「待っていてウィシュナ。絶対に犯人を見つけるから……!」
 ティアロは動き出す。ファーノを監視してみよう。今ティアロに出来ることは、可能性をひとつひとつ確かめて、潰していくことだけだ。
 ファーノはすぐに見つかった。会場から離れたところで数人の学友たちと集まっているのが見えた。皆、学校でいつも一緒にいる面子だ。最近力をつけてきたレイスト家に取り入ろうとする中小貴族の娘たち。ティアロはあまり面識はないが顔と名前が一致するくらいには知っていた。
 彼女たちは何か話しているようだ。ファーノは顔を真っ赤にして――涙を流している。ティアロは整えられた植え込みの影に隠れて聞き耳を立てた。
 パーティの賑やかな声もここではくぐもった雑音にしか聞こえない。彼らの会話は難なく盗み聞けた。こんな自分を見たら、ジースは「ミンセットの娘がはしたない」と騒ぐに違いない。
「ファーノさん、悔しいのは分かるけど落ち着いて……」
「落ち着いてなんていられないわ! 何ですか、あの言い方と態度は……!」
 ギリギリと奥歯を噛んでいそうな形相だ。宥めている学友に、今にも掴み掛っていきそうな気配を漂わせている。
 いったい何の話だ、と思った矢先にファーノの口から答えが飛び出た。
「ミンセットの娘だからっていい気になりすぎですわ!」
 ――私の話か。ティアロは無意識に息を潜める。さっきのやり取りの話をしているんだろう。
「余り大きな声では……」
「あの人を見下した顔……なによ、お高くとまっちゃって!」
 慌てて周囲を窺う学友の声は、やはり届いていない。
「ミンセットの名がなければ、あんな女……誰が相手にするものですか!」
 ティアロは刹那、硬直する。
 ――そうだ、ティアロに近づく者は皆ミンセットとの繋がりが欲しかっただけ。それは分かっている。「ティアロ」を求めている人は居ないということは、幼い頃から理解していた。漠然とした、ふわふわと漂う不確かな意識ではあったが――。
(ウィシュナ……!)
 どうしてこうも、胸がざわつくのか。
 ティアロはその場から去る。ドレスについた葉を払い落として、深呼吸をひとつ。
 パーティ会場はまだ盛り上がりを見せている。「ミンセット家のお嬢様」に近づこうとする人々を視線で跳ね除けて、馬車へ向かった。
「お嬢様! まだ会は終わって……」
 ジースが案の定抗議をしてきたが、その声は途中で止まる。
「随分と顔色が……どうかなさいましたか?」
「帰る」
 簡潔に言い放って返事も待たずに馬車へ乗り込む。気分も悪いが、機嫌もその何倍も悪い。ジースは肩をすくめると、近くに居た使用人に何か言伝を頼んでいた。両親への伝言だろう。
 御者台に座ったジースが馬に鞭を入れた。嘶きが聞こえ、ゆっくりと馬車が進みだす。
 小刻みな振動に身を任せながら思考に沈み、けれど先ほどのファーノの言葉が頭に反響して集中できない。
『誰が相手にするものですか!』
 ――うるさい、家名につられただけの輩なんて私から願い下げだ。
 乱暴に頭をかく。そうだ、そんな連中はこちらからお断りなのだ。しかし、ウィシュナがいなくなった今――ただのティアロを慕ってくれる人間がどこに居る?
 ああ、とティアロは息を吐く。おそらく――誰も居ない。その事実にというよりも、そう結論付けてそれに言い返せない自分に愕然とした。
 ――マチルディアはどうだろうか? ミンセットと知っても態度を変えない彼女なら、自分を「ティアロ」として見てくれているかもしれない。たとえば、あんなごみ捨て場じゃなくて良い暮らしをさせてあげればもっとティアロと仲良くしてくれるかも……
(……それじゃダメじゃないの。私もどうかしてるわ)
 軽く首を振ってその考えを追い出した。
「お嬢様、先日屋敷に招いたマチルディアのことですが」
「――なによ?」
 タイミングを見計らったかのようにジースが口を開いた。視線はまっすぐ前を見つめたまま。
「また私の友人にケチをつける気なの?」
「ティアロ様のご学友の殺害現場に居るのですよ。怪しいとはお思いにならないのですか? もしかしたらあの女も何か関わりが……」
「そんなことは」
 ない、と果たして言い切れるだろうか。言いかけた言葉を止めて腕を組む。ウィシュナの最期をみとったのはマチルディアで間違いはなさそうだが、ゴミ捨て場に住んでいるのであれば遺体がどこへ行ったのか知っていてもおかしくはない。それを教えてくれないというのは……そういえば前回質問したときはぐらかされなかったか。
 これはもう一度会って確認すべきだろう。
「いけませんよ、ティアロ様。警備隊に任せておけばいいのです」
 見透かすように釘を刺された。もちろん――従う気はない。