第一章 第六節

「はぁ……ようやく落ち着けるわね」
 父も母もジースもマチルディアのことをうるさく言ってきたが、彼らの小言をすり抜けてどうにか自室まで案内してきた。客間ではなく自室で話すと告げたときのジースの慌てっぷりは、他に類を見ない。夕食も運ばせると言ったのだが、それはマチルディアに断られた。
「そんな言葉遣いすらもなっていない輩を! お屋敷まで案内しただけで十分でございましょう!?」
「言葉を選ばないあんたよりは数倍マシよ。前みたいに勝手に部屋に入ってきたら許さないわよ。お父様の命令だからって言い訳は聞かないからね!」
 切り捨てて、彼が詰まった隙に扉を閉めたのだ。今も扉の前をうろうろしている気配がするが、もう無視を決め込む。
 ティアロにだって自分だけの空間というものがある。大勢の人々の期待や眼差しを一身に浴びる貴族のお嬢様だからと言って、土足で部屋に上がられるのは我慢ならない。それが「娘が平穏無事に過ごせているかどうか」という両親の心配から来るものであっても。
「それで……その十字架のことなんだけど」
 そんなティアロの決心は横に置いておき、改めて切り出した。客を迎える用意はないため、毛足の長い絨毯の上に直接座って向かい合う。こうして二人で居ると、あの腐臭のような嫌な臭いが強烈に鼻をつく。長年……かどうかは知らないが、ゴミ捨て場暮らしのせいで残飯の臭いが体に移っているのかもしれない。「香でも炊いたら?」と言うマチルディアに甘えて、ウィシュナが好きだった香を炊いた。
「本当に、とても古い慣習よ。リンガム地方の更に奥まで行けば、残ってるかもしれないけど」
 指で十字架をいじりながら話を本筋へ戻す。リンガムの奥と言ったら、相当田舎だろう。
 ウィシュナの故郷。暖かくなると、彼女の薄紅色の髪と同じ色の花が咲くという、美しい地だ。いつか案内してくれると言っていたが、それももう叶わぬ夢となってしまった。
「自身の罪深さを認め、神に赦しを乞う。罪は何でも良いのよ。他者がどう言おうと、自分自身がとても許せそうにない……そういうものならね」
 ティアロは考える。ウィシュナはいったい、自分の何が許せなかった? 分からない。あんなにも近くに居ながら、彼女のことは何一つ分からないのだ。悔しさにスカートの裾を握る。
「つまり、黒の十字は祈りではなく懺悔の象徴なのよ」
「懺悔、の」
 反芻した言葉は頭で響きあい、ティアロに問いかける。何に対して、と。
「マチルディアは、自分の何が許せないの?」
 しかし口をついて出たのは別の疑問だった。
「私? つまらないことよ」
 自嘲すると、
「生まれてしまった自分、生んでしまった自分、逃げ出した自分。それでも生きてる自分が……とても嫌になる」
 独特の声音が、不協和音のような響きを持つ。憎しみが音を発したらこんな感じだろうと、ティアロは何とはなしに考える。
 ティアロが言葉を返せずにいると、マチルディアは「今のは忘れて。ただの戯言よ」苦笑した。
「本当言うと、この十字架は私のではないのよ。……学生街で殺された女の子から託されただけ」
 昨日の夕食の話でもするような簡単な口調だったので、マチルディアが何と言ったのか一瞬分からなかった。
「――今、なんて?」
 学生街で殺された女の子とは、ウィシュナのことではないのか。理解が浸透してくると、今度は余りに意外な言葉に驚いて固まる。フードから少しだけ彼女の瞳が覗いた。闇のような光を湛えた、試すような、探るような視線。
「そ、その女の子……ウィシュナは、私の友達よ。どうして、あなたが」
 見た目は非常に怪しいが、人殺しをするような人物には見えない。
「死の間際――もう助からない状態だったわ――たまたま通っただけ。この街に居る間、私はあそこで暮らしてたから」
 あのゴミ捨て場のことだ。そこで暮らしているというのにも驚きを隠せないが、この言葉が真実であるのなら、マチルディアが唯一ウィシュナをみとった人物だということになる。
「あの、ウィシュナの遺体は」
「私もあなたに聞きたいことがあるわ」
 質問はかわされ、マチルディアはローブの袖から小さな袋を取り出した。中から出てきたのはゴミのようないくつもの紙切れ。それらを丁寧に並べて、ティアロはそこに現れた文字列を凝視したまま凍りついた。虫食いの文章だが、それでも「ウィシュナ」「夜」「学生街」「会おう」などの単語は拾い上げられた。そして、何よりもティアロを驚かせたのは――
「『ティアロより』……あなたの名前ね。字はあなたのもの?」
 震える指で字面をなぞっていく。その動きに合わせて紙がずれる。ティアロ達を真実から遠ざけているかのようだ。
「これは何なの……?」
「あのゴミ捨て場で拾い集めたものよ。私の住処をうるさく荒らし回る警備隊には知らせなかったけれど」
 乾いた血がついてる。ウィシュナが殺されたとき、これを持っていたということか。ウィシュナはティアロに会うために……この手紙の内容を信じて、夜の学生街へと繰り出していったのだろう。「後でね」はこの手紙のことを指していたのか。
「これは間違いなく私の字だけど。こんな手紙、知らない。書いてない」
 喉が痛い。唇が震える。言葉が上手く出てこなかった。涙を堪えて無理やり言葉を紡ごうとしているときのような不自由感が体を支配する。
 ――ウィシュナを殺したのはこの手紙の人物だ。誰が? 学院の人間? まさか。ウィシュナを殺して得する人物なんて居ない。地方領主の娘などに興味はないはず……いえ、待って。浮かんできたのは学友たちの姿。ウィシュナが居なくなれば、ティアロの隣が空く。それを狙って? ありえない話ではないが――
 それでも一つだけはっきりしていることがある。
「私がウィシュナを殺したも同然じゃない!」
 拳を握って床を叩く。
 紙片があざ笑うように舞った。



 マチルディアがこの紙切れを警備隊に提出しなかったのは幸いと言えるだろう。
 簡単な取調べが一転、犯人確定だ。ミンセット家の力があれば、事件を闇に葬ることは出来るかもしれないが……というより、確実にそうなる。そして調査はそこで終了するだろう。ティアロ=ミンセットが殺したのだと、関係者の記憶に刻みつけられたまま。
 ――私じゃない! いくら叫んでも、どれだけ訴えても、彼らにとっての真実が偽りに成ることはない。
 マチルディアはあまり深入りしない方がいいと言って去っていったが、ティアロはもう何がなんでも犯人を見つけるつもりでいた。
 とりあえずは学友を調べてみるが……ある意味では生徒全員が容疑者になる。あまりの多さに眩暈を感じながらも、考える。怪しいのは、真っ先に近づこうとしてきたファーノか。
 レイスト家。ジースが言うようにそこそこ大きな家だ。特に最近は勢いが良い。だがミンセット家には及ばない。ミンセット家は南の広大な領地を預かり、その税収入は相当な額だ。過去に数度、国王の後宮に娘を送ったこともあり、王家との繋がりもそれなりにある。
「とりあえず、あと九日か……」
 ティアロは静かに息を吐いた。