第一章 第五節

 マチルディアは人々の間を縫うように進んだ。特に目的があるわけではないが、足は淀みなく動いていく。
 舌で奥歯をなぞった。あの異物の感触が伝わってくる。指で取ってしまえば簡単なのだが、口に手を突っ込む気になれず、数日間ずっとこのままだ。
 今マチルディアが歩いているのは食事街と呼ばれる、ちょっとした喫茶店から高級レストランまでさまざまな店舗が軒を連ねている通りだ。夕食時のせいで賑わっている。店の前を通り過ぎるたびに良い香りが鼻腔をくすぐるが、そのどれにも魅力を感じなかった。
(良い香りと思えるだけマシかしら……)
 苦笑して、薄汚れた横道に入った。すぐに突き当たる。喧騒から置き去りにされたこの場所は、ゴミ捨て場だ。悪臭が漂う。普通ならば思わず鼻を覆ってしまうだろうが、マチルディアは思い切り息を吸い込んだ。
 どうしようもない程に、自分の体に吐き気を覚えてしまうくらいに、気分が安らぐ。
 ゆっくり息を吐くと、打ち捨てられた残飯へと無造作に手を伸ばした。ハエをはじめとする害虫が驚いたようにうごめく。マチルディアの顔や腕にも止まるが、気にせず漁り続ける――と、「おい、お前」背中に声がかけられた。
「最近ゴミ漁って回ってるのはお前か」
 マチルディアは振り返る。どこかの店の主人か何かだろう。神経質そうに髭を撫でつけ「困るんだよ、荒らされると」一歩近づいてくる。
「食いモンが欲しいなら表通りで乞食でもしてろ。ここよりは真っ当なモンがもらえるだろうよ」
 マチルディアは男を無視して、ゴミから腐肉を拾い上げた。すっかり変色していて、とてもではないが食べられるような代物ではない。普通ならば。
 ハエがたかるその腐肉を、マチルディアは何でもないように口に放り込んだ。慌てたようにハエが飛び回り、逃げ遅れた虫は唾液にまみれて噛み砕かれる。
「うげぇっ……お前何を……」
 男が口元を押さえる。青褪めた顔。マチルディアは無表情を貫く。
「食べてるのよ。悪い?」
 咀嚼もほどほどに、飲み込む。
 これが異常だということは理解している。だが忌々しいことに、こうしないと生きていけないのだ。
 音のような声で返事をして、ぺっ、と唾を吐き捨てる。唾にまみれたハエが地面に落ちた。舌に残る羽や足などの残骸も適当に指で取り除く。男がますます青い顔をしているが、マチルディアは構わずに次の飯を探し始めた。
「お前っ、ちょっと、待て! 何考えてやがるんだ!」
 男はずかずかと近寄ってきて、その肩を乱暴に掴む。
 ずるり、と頭に被っていたフードが落ちた。漆黒にも似た髪が揺れる。青白い肌に嵌め込まれた瞳もやはり黒。
 マチルディアは先ほどとは違った理由で青ざめて固まる男に向けて、爬虫類のように唇を持ち上げた。獰猛な笑みに男が怯んだ刹那、マチルディアは彼の手を退け体を深く沈めて足を払った。
 無様に倒れこんだ男の喉を踏みつけて、言う。
「ここで見たことは他言無用。もし言ったら……分かってるわね?」
 足に体重を乗せる。陳腐な脅しでも男には効果があったようで、馬鹿みたいに首を縦に振っていた。ゆっくりと足をどけると、男は小動物のような素早さで逃げ出していった。
「ふぅ……本当に言わないかしら、あの男」
 フードを被り直して独りごちる。男が凝視していた部分――額をそっとなぞる。その感触に、マチルディアは不満そうに唇を尖らせた。
「好きでこんな体に生まれたわけじゃないのにね……」
 腐った肉片を拾い上げて、乱暴に飲み下した。味覚は狂っているので味は感じないがそれでも、まずい、と呟く。
 胸元にぶら下げた黒の十字架が揺れる。――忘れてるわけじゃないわよ。ぼそりと言って独り口を尖らせた。
(まさかあの子がこんなところに居るとはね……)
 となれば、彼女の願いを叶えるためにリンガムへ行くには相応の覚悟が必要なのだ。十字架を託されたのも何かの縁、と気持ちを片付けて向かうことは出来ない。
 マチルディアの額にハエが止まった。それを払うこともせず、マチルディアは歩み去る。



 馬車の中で、何とはなしに揺れる景色を眺めていたティアロの視線がひとつの黒影を捉える。
 ――マチルディア!
 あのゴミ捨て場で出会った、奇妙な女性。目深に被ったフードは相変わらず顔を覆い隠していて、けれどティアロには彼女だという確信があった。
「ジース、ちょっと、止めて止めて!」
 御者台に居るジースに怒鳴り、返事も待たずに扉を開けた。驚いたジースが慌てて馬車を止めるのと同時に、飛び降りる。あの方向は、学生街か。ティアロはジースの疑問の声も急停止した馬車に目を白黒させている住民も無視して、マチルディアめがけて走り出す。
「マチルディア、待って!」
 雑踏の中、マチルディアは足を止めた。追いついたティアロは肩で息をしながら、彼女を見上げる。こうして並んでみるとティアロよりも若干背が高い。唯一フードから覗いている口元が動き「何の用かしら」問いかけてくる。
「え? あ、用という程のものじゃ……」
 反射的に追いかけてきてしまったが、自分はどうしたいのだろうか。特に何も考えてなかった。
「……あ、それ!」
 答えに窮しているティアロの目に、マチルディアの胸元に揺れる十字架が飛び込んできた。簡単な装飾が施された、真っ黒の十字架。ウィシュナのものと同じだ。
「もうすっかり絶えた慣習だと思ってたけど、あなたも知ってるの?」
 ティアロの驚きをどう受け取ったのか、マチルディアが言った。「古い慣習?」ティアロが尋ね返すと、マチルディアは頷いて、
「ええ。自身の罪を神に赦してもらうために身につけるものなのよ、これは」
 自身の罪。ティアロは舌の上で転がした言葉に、疑問を抱く。――ウィシュナの罪とは?
「お嬢様、一体どうなさったのですか……!」
 ジースが血相を変えて走り寄ってくる。彼はティアロとマチルディアを交互に見て、あからさまに眉をひそめた。
「失礼ですが――ティアロ様とはどのようなご関係で?」
「と、友達よ友達! せっかくだから夕食に招待しようと思って」
 マチルディアが答えるよりも早く、ティアロは口を開いた。訝しがるジースの背中を押して、マチルディアの手を取って、
「ほら、早く帰りましょう。お父様もお母様も心配なさっているわ」
「し、しかし……いくらご友人でもこのような……」
 戸惑った声。ティアロは鋭く「このような、何?」問い詰める。
「得体の知れない、気味悪い女?」
 くすくす笑いながら言ったのは、マチルディア本人だった。ジースは図星をさされたのか顔をしかめる。
「良いのよ、私だってあなたの立場だったら断るわ」
「……では、お引取り願えますか」
 ジースが素直に要求を突きつけると、マチルディアはあっさり頷いた。慌てて反論したのはティアロだ。
「ダメ! ちょっとだけで良いの。その……話を、聞かせて頂けない?」
 最後は呟くように。マチルディアは考え込むように沈黙する。
「い、いけませんお嬢様! このような不審者を馬車には乗せられません!」
 マチルディアは喚くジースを指して「彼は反対のようだけど?」からかっているような口調。貶されているにもかかわらずくすくすと笑っている。
「馬車を動かさないなら歩いて帰るまでよ。あんたは、馬車で先に帰りなさい。お父様かお母様に私はどうしたのか聞かれたら、こう答えれば良いわ――知らない女と一緒に置き去りにしました、ってね」
 言い放つ。ジースは青ざめて口をぱくぱくさせている。
 強情なティアロに、最初に折れたのはマチルディアだった。
「そこまで言うのなら、私は行っても構わないけれど?」
 どこか面白そうな声音で、ティアロに頷きかけた。
 ジースは絶句したままだ。ティアロは焦れて「じゃあ歩いて帰るから。マチルディア、こっちよ」帰ろうとする。
「いえ、それは困ります!」
「なら早く馬車を用意しなさい」
 渋っていたが、ティアロが意見を曲げないと悟ったようで、諦め顔で「こちらでお待ち下さい……」と引き返していった。
「強引ね」
 マチルディアが苦笑する。
「あいつ、頭固いのよ」
 ティアロが吐き捨てる。「全ては主のため、じゃないかしら?」マチルディアの言葉に首を振り、
「主というより、家名ね。ミンセット家の名前を守ることで頭がいっぱいなのよ」
 慌しく向かってくる馬車を見つめて、深く息を吐いた。