ある空白の夜

「昨日さぁ、レイがトイレ行ったきり帰ってこなかったんだよね」
 私が宿舎の食堂に入ると、朝特有の喧騒の中からティールの声が聞こえてきました。確かレイと同室の子でしたね。彼の言葉に同調するかのように、その隣は空席でした。
 向かいに座っているのはアレクとジータ。ここにレイを加えた彼ら四人は仲が良いようで、よく一緒に居る姿を見かけます。
「お早う御座います」
 入り口から食堂全体に通るよう声を張り上げると、いくつもの挨拶が返ってきました。お早う御座いますの輪唱です。これを聞くと、一日が始まったような気がします。バステイド団長ともう一人の副団長であるローランドには個別に挨拶をして、これで朝の儀礼は終わりです。
 私は食堂のリーダーであるアマンダおばさんことアマンダちゃんから食事を受け取ると、その足でティール達の席に向かいました。
「ここ良いですか?」
 私が尋ねると三人は驚いたような顔をして、でも席は座っても良いみたいです。
「レイのことですけど」
「ああ、フェイリア副団長知ってます? あいつの行方。どっかで倒れてんじゃねぇかって三人で話してたんすよ」
 レイの名を口にすると、ジータが即座に反応しました。二人は波長が合うみたいですから、やはり心配なんでしょうね。私は安心してもらおうとにっこり笑って、
「昨晩から私の部屋に居ますよ。多分、今もまだベッドで寝ています。だから心配は……」
「ふ、副団長の部屋ぁ!?」
 私の言葉は三人の見事な合唱によって遮られました。直後、食堂内の視線が私に集中してるような気配を感じました。
「ひ、一つ訊きたいんですが……何やってたんですか?」
 ティールが恐る恐る、といった風に尋ねてきました。私は昨夜のことを思い出して、これ以上彼らに不安そうな顔をさせないために慎重に言葉を選びました。
「一晩中抱かれていました。少し寝不足ですよ」
 最後はおどけたつもりだったのですが、全然上手くいかなかったようです。彼らはますます険しい顔をして、ついでに周囲の騎士達も驚いた表情で私を見ていました。
 視線をずらすと、団長やローランドまでもがぽかんとした表情をしてました。私は何か変なことを言ったのでしょうか。あ、これがいわゆる「滑った」というやつですか? 慣れないことはするものではありませんね。
「だ、抱か……って、本当ですか!」
 ティールが、何故か耳まで真っ赤にして叫びました。アレクとジータも身を乗り出して「冗談ですよね?」と顔を引きつらせています。
「本当ですよ。……お陰で体が――特に腰の辺りが痛くて。レイ、下に手を入れてくるものですから」
 そこまで言うと、唐突にティールが鼻血を吹いてイスから転げ落ちました。頭でも打ったのか、完全に目を回しているようです。
「ティール、大丈夫ですか! 誰か救護室へ運んであげてください」
 すぐに数人の騎士が駆けつけて、ティールを連れていってくれました。いきなりどうしたのでしょう……鼻血程度では死なないとは思いますが、少し心配です。
「何もないと良いのですが……」
「うおおおおお、レイのやろぉー!」
 呟いた言葉は、地の底から響いてくるようなアレクの叫びにかき消されてしまいました。ティールのことはまったく気にしてないようです。信頼がそうさせているのでしょうか。素晴らしいですね。
「抜け駆けしやがって……殺す!」
 ジータが机を叩いて立ち上がりました。それに呼応するかのように、そこかしこで「あのやろう!」「許さねぇ!」「羨ましすぎるぞちくしょう!」「袋叩きだ!」と勇ましい声があがっています。
 一種異様な盛り上がりを見せる食堂に、当のレイが姿を現しました。残念ながら、ティールとは入れ違いになってしまいましたね。アレクやジータをはじめとした騎士達の視線が、一斉にレイに集まります。レイも妙に殺気だった空気に気圧されて、困惑気味です。私と目が合ったレイは助けを求めるような顔をしましたが――正直私にも、このテンションに至るまでの原因が分かりません。
「あ、シア、俺なんでシアの部屋に……」
「フェイリア副団長の視界に入ってんじゃねえぇぇえ!」
 レイが何か言うより早く、ジータが飛び掛って――素晴らしい跳躍力で本当に文字通り――それに他の騎士達も続きました。レイのくぐもった、けれど悲痛な声が聞こえてきます。こういう事態になると、普段ならすぐアマンダちゃんの叱責が飛ぶのですが、今日はそれもありません。
「み、皆さん……?」
 見るも無残な光景に思わず立ち上がると、いつの間にか隣に来ていた団長に引き止められました。傍らにはローランドも居ます。
 団長は何やら神妙な顔つきで、
「シア……昨日のこと、詳しく話してみろ」
「でもレイが……」
「放っておけ。どうせ死なん」
 そうは思えない勢いですが……しかし団長の有無を言わせぬ口調に、私は昨晩のことを語りました。



「ん……?」
 私は不審な足音に目を覚ましました。窓の外を見るとまだ薄暗く、夜明けには今しばらく時間がかかりそうです。こんな時間に来客などあるはずがありません。しかし、足音はゆっくりと、確実に近づいてきています。物盗りでしょうか。私はベッドから降り、息を潜めて待ちました。これでもローゼエトル帝国騎士団の副団長です。物盗りなど、私の相手ではありません。
 衣擦れの音を隠そうともしていない様子ですが、私が気づかないとでも思っているのでしょうか。
 問題の足音は、私の部屋の前で止まりました。ノブが回されますが、当然鍵がかかっています。がちゃり、という普段なら気にならない音が異様に大きく響きました。
 ――扉を壊すのなら、壊せば良いのです。同時にあなたの命もありません。後悔する暇さえないでしょう。……ああ、いけませんね。生きたまま捕らえなくては。つい昔の癖で……。
 私は苦笑して、構えました。騎士たる者、体術の心得だってあります。
 しかし、相手は私の予想に反して扉をどんどん、と叩いてきました。
「おーい……鍵閉めんなよー」
「――レイ?」
 私は意外な声に構えを解きました。こんな時間にどうしたのでしょう? 私は戸惑いつつも、鍵を開けました。すぐに眠そうなレイの姿が視界に飛び込んできます。彼は部屋に入ってきて、しかしぼうっと立ったまま動こうとしません。
「何かありましたか?」
 私はベッドに腰掛けて尋ねてみましたが、どう見ても半ば以上寝ています。案の定、レイは意味を成さない呻き声を上げただけで質問には答えませんでした。私に向けられた瞳も、どこか焦点が定まっていません。
「あの」
「俺のベッドがねぇ……」
 レイがいきなり倒れてきました。「きゃっ」不意のことに私はベッドに仰向けに倒れ、その上にレイの体が乗っかる形になりました。ちょうど胸元に顔を埋めるようになってますが、息は大丈夫でしょうか。
 私は何とか這い出そうとしましたが、背中と腰に回された腕が思いのほか強い力で、思うように動けません。跳ね飛ばすのは簡単ですが、寝ぼけてる相手にそこまでは……。
 レイはお構いなしに、どんどん布団へ入ってきます。その間も腕は回されたまま。なんて器用なんでしょう。とりあえずレイの下からは脱出しましたが、つかまれて離れることはできません。レイの体に押し付けられて、少々息苦しさを感じるほどでした。
「レイ、ちょっと……んっ……!」
 間近に見るレイの顔は……やはり、寝ぼけ眼でした。
「あー、あったけー」
 私の声はまったく、届いていないようです。



「――結局、レイの抱き枕状態で朝を迎えました。寝ぼけてて、部屋を間違えたんでしょうね」
「はは……だよなぁ」
 団長は引きつるような苦笑いを浮かべて、
「そこまでされて何とも思ってねぇんだから……望み薄か」
「はい?」
 団長の呟きが聞き取れずに首を傾げましたが、私には答えず、皆に囲まれるレイを同情の眼差しで眺めていました。