第三章 第二節

「んん~。朝は静かね」
 明るくなり始めた空に向かって、大きく伸びをする。光が徐々に闇を追い払っていき、人々の営みも始まる。まるでアヌーヴが天から微笑んでくれているようで、レーテはこの静かな時が好きだった。
 夜を無事に過ごせたことへの感謝の祈りを捧げる。そして、今日一日も心穏やかに過ごせるよう、深く頭を垂れた。
 カリテアは起きる気配を見せない。幸せそうな寝顔をとっ散らかった銀髪に埋めて、むにゃむにゃと口を動かしている。夢の中でケーキにでも囲まれているのかもしれない。
 レーテはずり落ちた布団を直してやると、念入りに身支度をして宿を出た。カリテアには待っているよう置き手紙を残してきたが、ちゃんと待っていられるか不安になる。小さな子を留守番させた親のような気分だ。
 司祭さまにご挨拶をしたら――万が一にでも仕事がもらえれば別だが――すぐにでも次の街に発つ予定だ。ふらふらとどこかへ行かれては困……
「……らないわね、別に」
 小さく苦笑する。宿を教えてもらって、ケーキを奢って。ついでにトリベリー狩りも手伝って。もう自分たち二人をつなぐものは何もないはずだ。バールに到着したときからずっと、カリテアは当然のような顔をしてついてくるから、つい忘れてしまいそうになる。
 変な場所で行き倒れていたが、きっとどこかへ行く途中だったのだろう。その最中、空腹で倒れてしまったのかもしれない。
「ケーキ食べて忘れてそうだけどね……」
 それでも、カリテアにはカリテアの生活がある。忘れている(かもしれない)からといって、レーテの巡礼に付き合わせてはいけない。もしかしたらカリテアもいつ別れようか、タイミングを見計らっているのかもしれない。太陽が西から昇るくらいの確率で。
 教会はそう遠くないが、まだ朝も早いので遠回りしてゆっくり歩く。
 散歩をしている老人、開店準備をしている店主、親の手伝いをしている子ども――カリテアはどこで、どんな暮らしをしていたのだろう? あの性格だ、いなくなって家族は心配しているのではないか。
 あの妙に間延びした、恐怖を知らないような声が脳裏によみがえってくる。もし自分が彼女の親だったら、心配で家を飛び出しているに違いない。
 銀髪という、この世を生きるのに絶対的な「不利」を背負っていること以外に、カリテアのことは、異端発言も厭わない非常識なケーキ狂としか分からない。レーテも同じだから、つい信用してしまったが、実は凶悪な罪人だという可能性も、なきにしもあらず、だ。
 レーテの身分はロザリオが保証してくれる。この時代、神官というただそれだけで、信頼するには十分な理由となる。
「あっと……すみません」
 思案に夢中になってしまったようだ。ふいに横道から出てきた女性と肩がぶつかり、お互いに少しよろめく。レーテを振り返った女性は「この前の……」険しい顔をすると、節くれだった手で無造作に肩を払い、
「……汚らわしい」
 低く低く呟かれた言葉に、レーテは身を硬くする。その隙に、女性はさっと歩き去っていった。後に残されたレーテは、ただ立ちすくむ。
 銀糸に対する嫌悪、侮蔑、罵倒。そうだ、これが――普通だ。
 面と向かって言われるか、陰口をたたかれるか、うちに秘めているか。人によって差こそあれ、誰もが抱く感情なのは間違いない。学友たちの蔑みの声、視線、言葉が蘇る。頭蓋の中で、「不死者、不死者」とうるさく反響している。
「……」
 いつの間にか教会のある東地区まで来ていた。空はすっかり闇を追い払い、薄い青が広がっている。暖かな陽射しを受けて銀髪が煌めいた。
 教会の周りには、朝の掃除に精を出すシスターやミニスター、そして一般の信者たちがいる。この後、礼拝の時間だ。レーテも参加するつもりでやって来た。
 深く、深呼吸。吐いた息と共に、学友たちの、先ほどの女性の声を振り払う。
(――よし)
 大丈夫だ、ラクルでも礼拝には参加していた。女神の慈悲は、皆に等しく舞い降りるのだ。
「おはようございます。私も手伝うわ」
 出来る限り明るい声を出して近づいた。しかし、レーテに声をかけられた信者は小さく悲鳴を上げると、後ずさって「あ、その、認定神官さま……おはようございます……」目を合わせようとしない。
 彼女の動揺は波のように広がり、他の面々もレーテを見てざわめく。誰も近づいてこようとはしなかった。恐怖、嫌悪、侮蔑――よく知っている表情が、そこには並んでいた。
 ――落ち着け、落ち着け、私。アヌーヴがついてるわ。
 レーテはもう一度、深く呼吸を繰り返し、心で十字を切った。知らず手がロザリオに伸びる。
「どうかなさいましたか、皆さん?」
 そんなレーテの祈りが通じたようだ。
 ちょっとした空気の変わり様に気づいたのだろう、教会の裏手からシスターが近づいてくるのが見えた。
 その顔に見覚えがあった。初日にレーテを案内してくれた、あの金髪のシスターだ。
「まぁ、レーゼ認定神官さまではありませんか。おはようございます」
 向こうも覚えていたようだ。周囲とレーテとを見比べて、気遣わしげに、困ったように、微笑む。
(こんな神官、忘れるわけがないわよね)
「本日は礼拝に?」
「えぇ、そのあと司祭様にご挨拶しようかと思って。今は掃除も手伝おうかと思ったんだけど……」
 ぐるりと見回す。その視線に合わせるように、遠巻きに見ていた人々は目をそらした。石化の化け物よろしく、その視線が死を運んでくるとでも言いたげに。
「皆さん、神官さまがお手伝いくださるそうですよ。あとどのくらい残っていますか?」
 問いかけに「もう終わるので、お手伝い頂くことは特に……」小さく返答があった。それが嘘であることは明白だったが、何も言わなかった。シスターは頷くと、
「それなら、裏手に人手が欲しかったところなんです。お願いしてもよろしいでしょうか」
 誰も異論があるはずなかった。レーテを連れ立って裏手に向かうと、すぐさま、
「神官さま、申し訳ありません。どうか彼らを悪く思わないでください」
 頭を下げた。裏手には誰もおらず、すでに掃除が終わっていることを物語っている。
 レーテは軽く手を振って、
「いいのよ。さっきはありがとう。でも、あなたも無理する必要はないわ」
「無理などしておりません。同じ信仰に身を委ねる者同士です。最初にお会いしたときは申し訳ありませんでした」
 レーテが思った以上に、熱心で真面目なシスターのようだ。まっすぐにレーテを見つめて、微笑みかけてくる。
「神官さまがご挨拶にいらっしゃったことは、私からお伝えいたします。礼拝が終わりましたらご案内しますので、お声がけください」



 オルガンの奏でる音色に耳を傾けながら、一番後ろに座ったレーテは礼拝堂を見渡した。故郷のラクルのような小さな教会ではなく、結構な人数が集まっている。開け放たれた扉からまだ冷たさの残る空気が入り込み、そこかしこに捧げられた聖水のすっとした香りを運んでくれる。
 礼拝堂に整然と並べられた長椅子は、五人は腰掛けられるようになっているのだが、案の定レーテの隣には誰も来ない。通りがかった幼子がこちらを凝視していたので、にっこり笑ってみたが「ママー!」と逃げられた。その途中で長椅子の出っ張りに腕をぶつけたような音がしたが、構わず親に抱きついていた。母親はレーテにおざなりな会釈を返すと、そそくさと別の席に座る。
 入り口には教会兵が控えており、眼光鋭く警戒している。特にレーテに向ける視線が痛いような気もするが、きっと気のせいだろう。たぶん。
 礼拝を取り仕切るのはその教会に所属する聖職者たち。認定神官たちは、司祭が礼拝に集中できるよう外で見回りをすることが多い、と教師が言っていたのを思い出す。その言葉を肯定するように、教会内にレーテ以外の認定神官の姿はなかった。
 認定神官たちは力ある言葉に祈りを乗せ、神力をもって不死者を浄化する。日々のそうした祈りを女神も聞き届けているため、礼拝に出ずとも彼らの信仰を疑う者はいない、というのが一般的な考え方だ。
 やがてオルガンの音色が止み、司祭の説教が始まる。御年五十とかなり高齢の司祭だが、まっすぐ伸ばした背筋は年齢を感じさせず、滔々とした声は聞く者の心を落ち着かせる低音。長年司祭をやってきた貫禄は十分だが、少し寂しい頭髪とふくよかな丸みが愛嬌となり、親しみやすさを生んでいた。
 じろじろと見ていたせいだろうか。
 司祭と不意に目があった。刹那、心臓が跳ねる。この後お会いするのに、不快に思われたらどうしよう――しかしレーテの意に反して、司祭はにこりと微笑みかけて視線を前に戻した。
 それだけで、一気に緊張が和らぐのを感じた。肩の力が抜け、心が軽くなる。
(司祭さまはお優しい方みたい……良かったぁー! トリア司祭みたいなのじゃなくて!)
 その後も礼拝はつつがなく進行し、最後の祈りを終えた信者たちが粛々と帰っていく。司祭が笑顔でその後姿を見送っている。その人波が去って行くのをレーテも黙って見つめていた。これだけたくさんの人がいるのに、誰一人としてレーテと目を合わせなかった。笑顔の準備は万端だっただけに残念である。
 そして人もまばらになってきた頃。
 司祭も退室の準備をし始めたので、そろそろシスターに声をかけようかと思って腰を浮かせたレーテの視界に、先ほどの親子が映った。すとん、と上げた腰をおろす。どうやら司祭に用があるみたいだった。
 母は先ほどとは打って変わって恭しい礼をすると、子どもを促す。
「ほら、司祭さまになんていうの?」
 しばらく恥ずかしそうに母の後ろに隠れていた少年は、
「……怪我をなおしてほしいです。おねがいします」
 やっとそれだけ呟いた。消え入りそうな声でも、教会の静寂の中ではレーテの耳までわけなく届いた。司祭はしゃがみこんで少年の顔をのぞき込んでいる。恐らく、どこが痛いのか聞いているのだろう。少年が腕を差し出す。司祭が優しく腕を包み込むと、その指の間から淡い光が漏れだし、腕の中へ吸い込まれていくように消えた。
 癒やし。
 神官が扱える、もうひとつの奇跡。
 一般の人々にとっては、こちらの方が馴染み深いかもしれない。怪我は神官、病気は医者。司祭や神官を「先生」と呼ぶ人もいるくらいだ。
 治癒が終わった親子は幾ばくかの布施をすると、レーテの横を通り過ぎていった。