第三章 第一節

 夜空の月から注ぐ寒々しい死の光、それをカーテンで遮りながら、女――老女と呼ぶには若く、中年と呼ぶには老けている――は祈る。
 窓辺に置かれた女神の偶像は穏やかな微笑を浮かべてその祈りを聞いている。傍らには白い薔薇。悪しき光から守るように花瓶からまっすぐ伸びている。
 節くれだった指を強く組み、深く深く頭を垂れる。
 今日は街中で銀髪の二人組を見かけた。ひとりは神官のようだったが、なおさら穢れた色をまとう神経が信じられない。染めるなり、隠すなり、とにかく悪しき色が他者の視界に入るのを避けるべきだ。あの色を許す教会も、どうかしている。触れたが最後、死が病のように伝染してきそうだった。
「女神よ、その弓手に心を、馬手に体を委ねます。避けられぬ扉を私が開けるとき、どうか慈悲と安らぎをお与え下さい」
 アヌーヴ。人に神力を与えたとされる、慈愛の女神。
 夜の祈りは穢れた月光を振り払い、朝の祈りは死の夜を無事に乗り越えた感謝を捧げる。死後、万が一にも銀闇の手などに落ちぬように。
 自分たちのような一般の信者は、認定神官のように神力を行使して女神のお役に立つことは叶わない。なればこそ、女神への感謝と信仰を示す――それはたまに布施という名の金銭にもなる――祈りが、御許へと旅立てる唯一の道なのだ。――と。信じていた。
『銀闇に魂を攫われない方法、知りたいですか? 簡単なことです――』
 近所の友人に誘われて、断り切れずに参加した小さな集会。狭い部屋にひしめく人々を前に、彼はそれこそ今日の天気を語るかの如く、
『死ななければ良い、ただそれだけのことです』
 当たり前の事実のように優しく囁いた。
 初めて聞いたときは、耳を疑った。それが出来れば誰も苦労しない、月を恐れたりなどしない。どれだけ長く生きられたとしても、せいぜい七十年か、貴族ならばもう少し長いかもしれない。
 彼の話は続いていく。
 しかし驚いているのは自分だけのようだった。周囲の人々は熱心にうなずき、時には涙さえ流している者もいた。
『今宵、この栄光への道に、新たな仲間が加わりました』
 彼が自分を見つめているのに気づいた。いえ、別にそんなつもりじゃ――呟いた言葉はろうそくの火さえ揺らさず、熱に浮かされたようなこもった空気に溶けていく。友人に助けを求めるように視線を向けるが、熱っぽい瞳で頷かれた。友人だけでなく、気づけば部屋中の視線が自分に集中していることを肌で感じた。
『私が至った道に、あなた方を導きます。我々が奇蹟の体現者になりましょう』
 鳶色の瞳がすぃと細められた。眠りに落ちていく刹那のように、思考が鈍くなっていく。ああ、ダメだ、と頭を振ってみても、水中で目を開いたように何もかもが不明瞭だ。視線という水を吸い込んで重くなった服が、女をずぶずぶと底へ沈めようとしている。
 彼がゆっくりと歩み寄ってきて、白い薔薇を差し出してきた。反射的に受け取ってしまってから、これは、この共同体の証なのだと理解する。
 誰もがその容姿を褒めるだろう美男子に見つめられ、女は気恥ずかしくなって、蜘蛛の糸のごとき瞳から目をそらした。
『良ければ、また来てください。我々はいつでもあなたを歓迎します』
 ――花瓶の白薔薇は、そのとき貰ったものだ。女が初めて集会に誘われたのは、もう数年前の話になる。
 寿命など、とうに超えてなお咲き誇る白薔薇。造花などではない。これも、彼の起こす奇蹟の一端なのだろう。
「アエシャ様……」
 枯れない薔薇だけではない。彼自身もまた、いつ会っても同じ青年の姿のままである。
 女は白髪の増えた金髪をそっと撫でる。
 自分はきっと彼のようにはなれないだろう。死の扉を叩くときの安らぎを女神に祈る、この自分は。
 昨年夫に先立たれ、ふと我に返ったのだ。夫はアエシャの教えには反対しており、彼が死んだ後はなんとなく、集会からも遠ざかった。それが申し訳なくて、誘ってくれた友人とも疎遠になり――ここ数ヵ月は姿を見ておらず、さらに顔もおぼろげにしか覚えていないことに気がついた。特別に親しいわけでもなかったが、顔を忘れるなどとんだ薄情者である。
「アエシャ様……どうかあなたを信ずる者たちを、栄光の白薔薇へとお導き下さい」
 子どももおらず、親もとうに他界している。生きながらえたとして、その孤独に耐えられる自信がない。あれほど死を恐れたというのに、今はどこまでも続く生を恐怖するなど、あのときの自分は想像していなかっただろう。
 女は静かに、祈り続ける――。



「ケーキ美味しかったねぇ、レーテちゃん」
「美味しかったのは認めるからカーテンを閉めなさい、カーテンを」
 アヌーヴへの祈りを終えたレーテは、月光が妖しく注がれる窓に顔をしかめた。カリテアは「え~」と不服そうだったが、素直にカーテンを閉じるとピンで留める。月の光が遮られると、ランプの炎が一層輝かしく見えた。夜、太陽が隠れた世界で女神を肌で感じるため、ろうそくなどを灯し、その火に祈る者も多い。
「月が出てるのに、カーテン全開なんてどういう神経してるのよ、もう」
 不服なのはレーテも同じである。月が出ておらずとも、女二人しかいない室内を夜中に晒すなど危機意識がないのか。不届きな輩が不埒な思いを抱いて侵入するだけならまだ良いが、もしこの銀の髪を見咎められて教会に通報されたらと思うと。身の潔白はロザリオが証明してくれるにしても不愉快極まりない。知らず浮かんだトリア治癒司祭の冷笑がレーテを打つ。
 カリテアはしばし考えこむような素振りを見せ、
「月光浴っていうのがあってねぇ」
「あー! 聞きたくない聞きたくない」
 またカリテアの寝言が始まると、耳をふさいで頭を振る。背中に流れる銀髪が無造作に揺れた。
「そんなに振ると髪の毛ボサボサになっちゃうよぉ」
 笑顔で近づいてきたカリテアがそっと手櫛で梳かす。石鹸の香りがわずかに鼻に届いた。
「ちょ、ちょっと、勝手に止めてよね!」
 温かな手を、口調とは裏腹にやんわりと払う。
「レーテちゃんの髪、サラサラだねぇ」
 カリテアは気にした風もなく、にこにこと笑ったまま褒める。間近に迫る笑顔に、思わず目をそらした。
 死の色。不死族の象徴。時には泥さえ投げつけられるような、そういう色だ。触れば死ぬだの、同じ空気を吸ってると死後に不死者になるだの、根も葉もない噂がたつことも多かった。
 父がああでなければとっくの昔にグレていたか、自殺でもしていただろう。不死者ではないことを証明するために。そして、「ほら、私は人間だったでしょう」と叫びながら銀闇の腕に堕ちるのだ。自ら死の扉を開いた者は、銀の底なし闇で永遠の責め苦を受けると言われているが、当時のレーテにとってそんなのは知ったことではなかった。苦痛を受ける場所が故郷や学校から闇の中に変わるだけである。
「あたしもね、あたしもね、きちんとお手入れしてるの。でもすぐ絡まっちゃってぇ……」
 自分の毛先を一束つまんで「昔はもっとサラサラでツルッツルだったんだよぉ」レーテのそれと見比べている。
「それを言うならツヤツヤでしょ。ハゲてどうするのよ」
 何も詰まってなさそうな額を軽く小突いた。
 そんな誰もが忌む銀糸に、こうも屈託のない笑顔と褒め言葉を投げかけるカリテアは、
「本当に、非常識極まりないわね……」
「なぁにぃー?」
 思わず飛び出た本音にカリテアが首を傾げる。
 しかし出会ってから目にしている数々のトンデモ行動に比べれば、銀髪を褒める程度――しかもこれで二度目だ――なんてことはないのかもしれない。
「何でもないわよ。ほら! 明日も早いんだからもう寝なさい」
 カリテアを隣のベッドに押しやる。翌日も一緒に行動するのが前提の発言に、レーテは気づいているのか、いないのか。
「明日はどこに行くのぉ? 朝ごはんはケー「またバール教会へ顔を出すわ。まだ司祭さまにご挨拶出来てないから」
 カリテアの戯言に言葉をかぶせると、布団に潜った。
 トリア治癒司祭があんなだったお陰で、じわりと不安が胸を満たす。バール教会へ伺うのは明日のことだというのに、トリアでの冷笑が余程堪えたのか。
 もしバール浄化司祭さまにもあの調子で応対されたら、将来この辺りの配属になったとき、上手くやっていける自信がない。それとなく耳に入ってきた評判だと、穏やかな司祭さまだと言うが。
 ――と、不確定な将来についてもやもや悩む程度には、レーテは緊張していた。
「レーテちゃ~ん」
 と、緊張感の欠片もない声が自分を呼ばわる。枕から顔を上げたカリテアが、優しく笑った。
「おやすみなさぁい。また明日ねぇ」
 その笑顔に、声に、なんだか自分がとても小さいことで悩んでたような気になって、
「……おやすみ」
 ゆっくりと目を閉じた。