第二章 第三節

「レーテちゃん、あそこ見てぇ」
 のんきな声が上がったのは、ようやく森を抜けた時だった。うっすら赤く染まった大地に佇み、長い影を伸ばしている――自然の美しいコントラストをぶち壊すような、影。
「不死、者……!」
 レーテの背筋に戦慄が走る。いくら人類の天敵、脅威と言っても、この辺りではそんなに頻繁に出会うようなものではなかった。
 人々はその影に怯えながらも、銀闇を罵りながらも、やはりどこか遠い存在として認識している。
 不死者がどういう条件で生まれるのかは分からない。しかしこんなマインラードなんていう田舎国よりもずっと都会であり、アヌーヴ発祥の地とされる聖アルヴィアや大神殿を擁する各国の方が断然多い――とは教科書の弁だが。
 子どもが作った土くれ人形のようにいびつで不恰好な輪郭。赤黒い肌はまるで血を塗りつけたかのようで。乱雑に伸びた髪は肌と同じ不気味な色合いを放っている。その辺りをうろつくような不死者に銀の髪を持つ者はいない。銀を持つのは、女王以外では『最も古き四人』と呼ばれる高位の不死者だけだとされている。とはいえ、その真偽を知っている人間はいない。古より伝わる伝承が、まことしやかにささやかれ続けるのみ。
「お、落ち着くのよ、カリテア」
 深呼吸を繰り返し、はねる鼓動をしずめる。誰が見ても落ち着いていないのはレーテの方なのだが、カリテアも特に突っ込まず「だいじょーぶぅ」甘ったるく返す。
 幸いにもまだこちらには気づいていないようで、不死者は何をするでもなく佇んでいる。
(逃げる、か?)
 気弱な考えが浮かんだが、すぐに思い直す。なんのために神術学校に入り認定神官になったのかを、忘れてはいけない。
「そうよ、不死者をぶっ倒すためでしょーが!」
 一喝。その声に不死者がぴくりと反応し、こちらへ視線を向けた。折りたたんであったロングメイスを手際よく組み立て、手に馴染ませるように何度か握る。聖水をふりかけて、準備は完了だ。
 今日のメイスは、なんだかいつもより重たい。
「――よし、行くわよ!」
 自分自身を鼓舞するように。
 叫び、走り出す。神官服のすそは長いが、スリットがあるのでそれほど邪魔にはならなかった。
 恐怖がないと言えば嘘になる。しかしそれ以上に、目の前の不死者を倒さねば、という思いの方が強かった。カリテアの存在も大きい。今彼女を守れるのは、自分だけなのだ。
 両腕を持ち上げて臨戦態勢の不死者。その懐に飛び込んで、メイスを叩き込む。
「レーテちゃん、かぁっこいぃ!」
 傾いだ体から、黒い血が飛び散る。腐肉が舞う。腐臭が漂う。
「うっげぇ……」
 そのグロテスクな光景と腐臭に、知らず声が漏れる。
 くさいなんてものではない。ハエすらも近づいてこないこの悪臭。乱れた前髪から眼球を失った暗い双眸が覗く。鼻は完全に削げ落ち、頬など皮だけが繋がっているようなものだった。
 教会が「恨みを持って死んでいった人間が不死化する」という説を否定するのも頷ける。目の前のこれが人間だったとは、思いたくない。しかし実際、墓から遺体が消えた事件もあって……いや、考えるのはよそう。レーテは首を振った。
 ――ぁ、ぅ――……
 胃の中身が逆流してきそうな気配と懸命に闘っていると、不死者が何事か呟いた――ように聞こえた。
 しかし、そんなことは有り得ない。レーテは軽く頭を振る。言葉を話す下位不死者など聞いたことがない。彼らは本能だけで生きているのだ。
 一歩、不死者が歩を進める。レーテはメイスを構え、正面から気味の悪い敵を睨みつける。こんなやつに怖気づいていたら、女王を倒すことなど夢のまた夢の、そのまたさらに向こうの妄想の世界の話だ。
「覚悟しなさい」
 覚悟するのは敵か、レーテか。
 精一杯メイスを振るう。しかし不死者はすいと身を引き、メイスを振り切ったのを見てから腕を伸ばしてきた。
「甘い!」
 レーテは不敵な笑みを浮かべると、ロザリオに素早く祈りを捧げる。
「我らが母よ、敵を滅する光を!」
 祈りの文句に反応して淡く光ったロザリオを、伸ばされた腕に突きつけてやった。じゅぅわ、と焦げる音。不死者が腕を引っ込めて、こちらの様子を窺うように、じっとしている。
 ロザリオ程度の浄化力では不死者を完全に滅することはできない。それはレーテも十分承知している。これはあくまで、不死者にまとわりつかれたりした場合などの、補助的な攻撃手段だ。もっとも、レーテはメイスを使った接近戦を得意としているため、ロザリオを使う機会は他の神官よりも多いかもしれない。
「新米だからって、なめないでよね」
 言葉など通じないし、不死者はそんなこと思ってすらいないだろうが――自分を励ますように、言い放つ。
 懲りずに、再び伸びてくる腕。レーテはメイスを薙ぐ。狙いたがわず、敵の腕を消し飛ばした。不死者は不思議そうに(かどうかは分からないけど)先を失った腕を見つめている。特にこれといって痛がる様子などはない。
(き、効いてないのかしら……?)
 一抹の不安がよぎる。
 ――ぁぁ、ぅあ――……
 また、聞こえた。さっきより明確な音。ぎょっとして不死者を見つめる。不死者は半ば以上消し飛んだ腕を伸ばし、しかしそれ以上何もしようとはしない。レーテは武器を構えたまま、耳を澄ます。
 ――ぁ、ぁう、けて――
 不死者は絶えず言葉を吐き出し続ける。
 その言葉は徐々に、徐々に明瞭さを増し、ついにはひとつの言葉を大成する。
 ――た、す、け、て――
 発せられたのは救いを求める言葉だった。
「は、はぁ?」
 あまりにも予想外の台詞に間抜けな声をあげてしまった。ここまで明確に言葉を話すということは、まさかの高位不死者なのだろうか。しかし、彼らはここではないどこか、次元の狭間などという曖昧な場所で世界を監視しているとされている――それはしょせん神話レベルでしかないのだが、神話だからこそ、誰もが漠然と信じている事実である。
(こいつ、本っ当に何なの!?)
 敵である神官に助けを求めるなど、ありえるのだろうか。いまいち現実を認めきれないレーテは、慎重に相手との距離をはかる。
 助けてというのはつまり、見逃せということなのか、それとも。
 不死者が伸ばした腕をさらに近づける。それは思いのほか素早い動きで、思考に沈むレーテは刹那反応が遅れた。やばっ――焦りはしかし、先ほど以上の戸惑いに変わる。
 無造作に伸ばされた腕は、躊躇いなくロザリオに触れた。ロザリオが光を発し、不死者の体がびくん、と痙攣する。
「ちょちょちょ、ちょっと!」
 反射的に、不死者からロザリオを離す。
 こんなちっぽけなロザリオの力でも、触れ続ければいつかは浄化できるかもしれない。レーテにとって不死者とロザリオを引き離す必要はまったくなかったのだが、そんなことも考えられないほど、混乱していたのだ。
「助けてって何よ、つまり――」
 浄化してくれ、ということなのか。そんな不死者がいるなど、どの教科書にも書いてなかったし、教師も言わなかった。
(ああもう意味分かんない! 誰か説明して! ていうか誰か代わってこのポジション!)
 無論、解説者も交代者も現れるはずもなく。
 不死者は攻撃する気配も見せず、先を失った腕をぶらんとたらして、暗い底なしの穴でレーテを見つめてくる。
「レーテちゃん」
 いつの間にか近づいてきたらしいカリテアが珍しく真面目な口調で呼びかけてきた。
「この子の願いを叶えてあげられるのは、レーテちゃんだけ。あたしからもお願い」
「で、でも……!」
 人語を解する不死者。つまり――ある程度の知能があるということ。
 不死者と言っても、その辺りに発生するような下位不死者ならば、凶暴で強力な野生動物と言えよう。動物と違う点は――これが最大の違いだが――その生態が、ほとんど解明されていないという点だ。どのように生まれてくるのかも諸説あり、その正体も不明。不明だから、アヌーヴが人間に授けたという神力によって浄化する以外に、倒す方法がない。
 ――そう、野生動物なのだ。野生動物に本能はあっても、言葉を操る知能はない。
 人語を操り、助けを求める不死者。こいつは――何者だ?
「レーテちゃん」
 カリテアが再び呼ぶ。先ほどよりも強い調子で。
 女不死者は動かない。ただじっと、底知れぬ瞳でレーテを見つめるのみ。鳶色の瞳と、闇の瞳。その双方がレーテに求めるものは――浄化という名の、死。
「ああもう、分かった、分かったわよ!」
 先に折れたのはレーテだった。念のためメイスを構えたまま数歩下がり、アヌーヴへ浄化の祈りを捧げた。ロザリオを間接浄化法と呼ぶのであれば、今レーテが行おうとしているのは直接浄化法――神力を直接不死者へと流し込み、浄化する方法だ。
「――母なる我が光、闇を切り裂きて駆れ」
 力ある言葉が放たれ、奇跡は女不死者の足元に十字の光となって現れる。
 そして。
 ――あ……――
 最後の言葉を待たずして、光が彼女を切り裂き浄化した。光が消え去ったあとには何も残ってはいない。敵が存在していた証は、レーテが最初に飛ばした腕の破片くらいか。最期になんと言おうとしたのか、今となってはもう知るすべはない。
「きっと『ありがとう』って言ってくれたんだよ、レーテちゃん」
 並んだカリテアが、笑顔を向けてくる。鈴のような声は、まるで何もかも知っているかのような落ち着きを持っていた。
「いやその前に、その辺に居る不死者って喋らないじゃない! おかしいわよ!」
 トリアへ帰ったらすぐに教会に報告しなくてはいけない。レーテに浄化される程度なのだから(自分で言っていて虚しいが)たいした力は持っていないのだろう。しかし、下位不死者でも知恵をつけた個体が増えれば、人を組織的に襲い出す日が来るかもしれない。そうなれば被害は今までの比ではないだろう。
「そうかなぁ? 全然おかしくないよぉ」
 カリテアは不死者の破片の前でしゃがみこむ。そしてその白い指先でそっと肉片に触れた。
「ちょっと、あんたなに触って」
「腐ってるね」
 レーテの言葉を遮って当然の事実を口にするカリテア。そのトーンはどことなく哀しい。
「不死者のものなんだから当たり前でしょ」
 言いながらロザリオを突き立てて、聖水をかける。じゅぅ、と肉の焼けるような音がして、あの不死者がここに存在したという証は綺麗に消え去った。あとに残ったのは聖水の香りだけ。
「……銀の祝福があらんことを」
 カリテアが物騒な祈りを捧げ、一緒に居るレーテがぎょっとしてしまう。つい周囲に人影がないか確認して、カリテアの頭を小突いた。
「銀のって、あんたね! この見た目でそんなこと言ったら、即異端者認定で処刑されるわよ!」
 この頭には常識ってものが入ってないのだろうか。もしここが教皇の治める聖アルヴィアだった日には、その場で住民に私刑にされて殺されてるかもしれない。
「望む、望まないに関わらず、不死者にとって銀闇は神さまと同じだから。それにレーテちゃんしか聞いてないから平気よぉ」
 カリテアはレーテを見上げて無邪気に笑った。