第二章 第一節

 翌日、レーテたちはバールの隣街、トリアへと来ていた。
 朝一にたたき起こされて、身支度もそこそこに出発。今朝は満足に祈ることも出来ず不機嫌なレーテと、トリベリー狩りに上機嫌のカリテアが並ぶと、やたらと対照的だ。
 バールよりも少しだけ大きい、閑静な街。大きいといっても国自体が田舎扱いのマインラードの、さらに地方での話だ。都会からやって来た人間からしてみれば違いも分からないかもしれない。
 陽は高く昇り、銀髪をきらきらと輝かせる。農作業に勤しむ人が、銀髪の珍客を物珍しそうに眺めていた。
「トリベリーはね、ちょうど今くらいがいっちばん美味しいの。甘いのの見分け方はいろいろあるんだけど、特に種の間隔が異常なくらい狭いやつが……」
 カリテアはトリベリーの解説に夢中で、レーテが欠伸をかみ殺してもお構いなしに続けている。
 美味しい食べ物の話というと、万国共通で盛り上がれるものだと思っていたが、その常識も今日限りで看板を下ろすことになりそうだ。
 レーテの頭が働いていないだけかもしれないが、とにかくカリテアの話は右から左へと聞き流していた。
 今度こそ司祭さまに挨拶をしようかとも思ったが、こんな早朝に行っても迷惑かもしれない。トリベリーを狩ってから改めて教会に寄ろう。
「レーテちゃん聞いてるぅ?」
「聞いてる聞いてる、すっごく真面目に聞いてる種の間隔がどうしたって?」
「それさっきの話よぉ」
 ぷう、と頬を膨らますカリテアをやっぱり適当に流して、すたすたと進む。カリテアやサエルの話では、トリベリーはこの街近くの森にあるそうだ。トリアの近くで一番最初に発見されたからトリベリー。なんとも安直なネーミングだ。
 しかし具体的な分布を聞くとなぜ二人とも目をそらすのか、マディーラから受け取ったこの荷袋の中身はいったい何に使うのかといろいろ疑問もあるが、とりあえず今は目的を果たすのみ。ケーキ代チャラのために。神官としての初仕事がこんなもので本当にいいのかと悩む時間はもう終わったのだ。
 しかしレーテはすぐに思い知ることになる。
 なぜ、二人が視線を合わせなかったのかを。マディーラの道具の意味を。
 カリテアに案内されながら急勾配の森を抜けて、眼前に現れたのは――崖。眼下に広がるのは、トリアの街並み。
 ひゅおぉおおぉお……と足元から風が吹き、レーテの神官服をカリテアのワンピースを揺らす。風に遊ばれる裾とポニーテールを押さえつけ、カリテアに問う。声に戸惑いと後悔を含んで。
「本当に、本当にトリベリーってここに生えてるの?」
「ほら、あそこに生えてるでしょぉ?」
 カリテアは朗らかに言って――足元に切り立つ崖をのぞき込み、まっすぐ下を指差す。
「危ないからそんなのぞかないの」
 カリテアの服を引っ張っておさえつつレーテも軽く見下ろす。豊富に生えた草の緑と、なんとなく赤い物体が見える。あれがトリベリーなんだろうとは予想がつく。
 しかし――
「なーんで野いちごが崖に生えるのよ、崖に! おかしいじゃない!」
「でもトリベリーはそういうものだからぁ」
 怒鳴るレーテにこともなげに言うカリテア。こちらを見上げる満面の笑顔にちょっぴり殺意がわいた。サエルもカリテアも、最初から正直にそう言ったらレーテが断ると思ったのかもしれない。もちろん断っていた可能性が高いが。
 ドルチェ・ブレッシングの品質にこだわる姿勢は認めるが、それを曲げてでもどこかから仕入れる道を選んで欲しかった。
 レーテは額に手を当てて青い空を見上げる。極彩鳥が飛んでいくのが視界をかすめた。
「マディーラから受け取った荷物も……下りろと言わんばかりの装備よね」
 地面に置いてひとつずつ取り出す。丈夫そうなロープのついたコルセット(マディーラとレーテが兼用できるのだから、随分融通が利くものだ)に、白い粉。恐らく滑り止めに使う。そして収穫用と思われる袋がひとつ。
 ロープは近くの木に結ぶのだろう。これで下りずして、いつ下りるのだ。そんな風に問い詰められている気分だった。
「あー、もう。仕方ないか。行ってくるから、くれぐれも崖から落ちないように」
 念入りに木に結び付けて、装備をセットする。こう見えて運動神経はいい方だ。準備万端のレーテは崖を見下ろす。じゃり、と足元の砂が零れ落ちた。
「ないとは思うけど……もし、不死者が出たら全力で逃げなさいよ。私はいいから」
「うん、大丈夫よぉ」
 軽い返事。少し凶暴な動物くらいにしか考えてないような印象を受ける。
 不死者は見境なく人を襲う。確かにその点では野生の動物となんら変わらないかもしれない。
 動物と違う点は、その生態のほとんどが未だに解明されていないという点だ。分からないから、浄化する以外に有効な対策もない。何故人を襲うのか、どこから、または何から生まれてくるのか――いくつか仮説はあるけど、どの説も本当っぽく、同時に嘘っぽくもあるのでどれを信じていいのか。
「逃げ足だけは速いからぁ」
 びしっ! と親指を立てるカリテア。この恐怖という感情をどこかに落としてきたような笑顔が、余計に不安にさせる。
 しかしだからと言って「あんたが下りろ!」とは言えない。
「本当に、気づいたら不死者に殺されてましたとか止めてよ?」
 しつこい父の気持ちが分かるような気がしてきた。
 返ってきたのは、はーい、という元気な声。
 それでもレーテの不安は消えない。その不安がカリテアを残すことに対してなのかまだ見ぬ不死者との戦いに対してなのか、それともただ単に崖を下りることに対してなのか分からぬまま――
「それじゃ行ってくるから、ロープと私の荷物ちゃんと見ててね。特にロープ、とれたらマジしゃれにならないわ」
 とれたときを想像すると、背筋に寒気が走る。もしレーテが落ちたら明日のトリアは「新米神官トリベリーに死す」なんて話題で持ちきりになるだろう。それだけは避けなくてはならない。
 何度か引っ張ってロープの強度を入念に確かめる。引っ張るたびにロープを巻いたあまり大きくない木がぎし、と音を立てるが思ったより大丈夫そうだ。レーテは意を決して、相変わらず風が吹き上げてきている中慎重に岩に足をかけた。手に塗った滑り止め用チョークが岩を汚す。
 手を、足をかけた岩からぱらぱらと砂が落ちては風に飛ばされていく。
 ――下を見ちゃダメ見ちゃダメ見ちゃダメ……。
 緊張と恐怖で押しつぶされそうになる。いくら体を鍛えていたとはいえ、こんなことやった経験などないのだから。だが約束してしまった以上は、何がなんでもやり遂げなければ。
「大丈夫よ、天才レーテ・レーゼにやってできないことはないわ」
 軽く頭を振って自分を励ます。私は天才、と無理矢理思い込んで気合を補充、ちょっとヤケになってがしがしと下りていく。少しゆとりを持って進むと、普段からマディーラが下りているためかとっかかりになる場所も多く動きやすいことに気づく。
「あと少しよぉ、頑張ってぇっ。あ、もう少し右ぃ!」
 カリテアの言葉を頼りに左右に動き、ついに風に揺れるトリベリーの葉音が耳に飛び込んできた。ちらっと斜め下を見ると、ごつごつした岩肌を彩る緑。風に揺れるたびにトリベリーの赤が顔をのぞかせる。
 やたらともさもさしたトリベリー畑の横につき、手近な実へと手を伸ばす。と、同時に。
「レーテちゃん、あぶなぁい!」
 カリテアの、唐突な叫び声。反射的に手を引っ込めて上へ逃げる。さっきまで手があったところを鋭い何かが空気を切り裂いて突っ込んできた。間一髪、もし反応が遅れていたら腕だけアヌーヴ神の御許へ旅立っていた。
 身震いして、突っ込んできた主を見た。そいつはばさばさとうるさい音を立てて崖から離れ、ちょっと美しさに欠ける姿でロープにしがみついたレーテと対峙する。
「ご、極彩鳥じゃないっ。なんで人間を襲うのよっ?」
 ――しかもでっか! レーテの頬が引きつる。
 豊富で絨毯にも似ている羽毛は濃い赤や黄色などのありえない配色で、小さい個体でも小柄な人間なら背に乗れるほどの大きさを持つ極彩鳥。かなり一般的な鳥からは外れている見た目だが、自分の子供を大切にする、おとなしい部類に入る鳥だ。加えて頭もいい。人を襲うことなど滅多にないはずだ。もし襲われるようなことがあれば人間が悪い場合が多いのだが――
「私、何もしてないじゃない!」
 しかしレーテの叫びは、羽ばたきにかき消される。