第一章 第一節

 これは人生を、もっと大げさに言うと、運命すら左右する重大な封筒だった。妙にぺらぺらだが、厚さで内容が決まるわけではない。
 レーテ・レーゼはペーパーナイフを握る手に力を込める。テーブルを挟んで向かい側には、父も真剣な面持ちで座っている。
 レーテは視線で合図を送ると、迷いも緊張も躊躇も恐怖も一切を振り捨てて、ナイフを一閃。ぱっくりと開いた口から見える紙の白さが、妙に目に痛い。
「レーテ、早く早く」
 子どものように、父が急かす。レーテは深呼吸をしてから、紙面に目を落とし――次の瞬間には、椅子を盛大にひっくり返して立ち上がった。
「いいぃぃよっしゃあぁぁ! ごおっかくーー!」
「おめでとうレーテ! 父さんはお前を信じてたよ!」
 父も立ち上がり、二人そろってガッツポーズ。
「夢じゃないのね? 私、神術学校の卒業試験に合格したのね! うふ、ふふふふ……」
 さっきまでの鎮痛な緊張などどこかへ吹き飛んで、もう笑いが止まらない。喜びを抑えきれないレーテは窓を開け、「卒業よー!」と叫びまくった。道行く人が何事かと振り返り、レーテだと気づくと微妙そうな表情をして「おめでとう、これからも頑張って」と祝いの言葉をかけてくれた。そんな複雑な祝福だって、今のレーテにとっては神の祝福に感じられる。
 レーテの長い銀髪が太陽を反射して、きらきらと輝く。この先の道を照らすかのように、それは鮮やかな色彩だった。
 この光沢を疎む人々の存在を忘れさせてくれる程に。
「今夜はご馳走を作るよ。そうかそうか、これでレーテも立派な認定神官か……」
 父が目頭を押さえて、声を詰まらせた。青い瞳にはうっすら涙が浮かんでいる。
 認定神官。人類の敵、不死族の蔓延る暗黒時代の光。神罰の代行者。
 この世で「神術」を使うことを許された、いわばエリートだ。人に仇なす不死者を浄化し、または傷ついた人々を癒す、慈愛の象徴。
 この時代を生きる人間ならば誰しもが憧れる神官に、レーテはついになったのだ。
(まあ、天才レーテ・レーゼさまにかかれば卒業試験なんてちょろいちょろい)
 ふふん、とひとり胸を張る。入学時の成績は下から数えた方が早かったのだが、そんなことはレーテの記憶から綺麗さっぱり消えうせていた。現に卒業出来たのだから、入学当初の実力など気にしない。気にしたら負け。
「ついこの間寮から帰ってきたと思ったら、もう数日後には巡礼の旅なんだね……また寂しくなるよ」
 レーテは窓を閉めると、
「だーいじょうぶ。旅なんてぱぱっと終わらせて、すぐ帰ってくるわ。どうせこの辺りの所属になるだろうし、そうしたらずっと一緒よ」
 父の首に抱きついて、その頬に軽くキスをする。祖父母も母も死んで、それから男手ひとつで育て上げてくれた、何よりも大切な家族だ。決して独りにはさせない。
「ほら、旅の準備をしてきなさい。早い方がいいだろう?」
 レーテの髪をくしゃりと撫で、優しい笑顔で促す。レーテは頷くと、階段を駆け上って自室へと急いだ。「旅の準備」。なんとも言えないくすぐったさを感じる。
「巡礼の旅なんて、いかにも神官っぽいわね。うふふ」
 荷造りをしながら、怪しい笑顔。
 巡礼の旅は、簡単に言えば研修期間みたいなものだ。最低一年は続けなくてはならず、必ず大神殿を訪ねるという決まりもあるが、割と自由にあちこちを回れる。
 神術や不死族に関する理論などは学校で学び、あとは実践の中で理解していけというのが、大雑把な方針だと言える。
「この部屋ともしばらくお別れなのね」
 そんな性格ではないが、ふいに感傷的になる。何となく寂しく思って、部屋を見回した。
 狭いくせに見栄を張って大きな机とベッドを置いてしまった、活動場所に困る部屋だ。積み上げた書物が雪崩を起こして遭難しかけたこともあったし、シングルなのにダブルベッドと勘違いした友人に相手は誰なのか尋問されたこともあった(まったく、何考えてんのよ)
 次々と浮かんでは消えていく、この部屋に染み付いた思い出たち。それらが遠いもののように感じられて、荷造りの手を止める。
 偉大な神官だったという祖父、アルバール・ベルティ。レーテが生まれる前に神官は引退していたそうだ。その彼はレーテが幼い頃不死者に殺された。その現場に自分も居たらしいが、覚えていない。
 自分も、運が悪ければ死ぬかもしれないのだ。今更ながらに現実を垣間見て、身震いする。嬉しさに浮かれている場合ではない。
 神官になって、旅をして、戦って、傷ついて、最悪は――
「ううん、大丈夫よ。天才レーテ・レーゼ、そう簡単に死にはしないわ」
 それに、勇敢な神官だった祖父の血が流れているのだ。
 レーテは頬をぱしぱしと叩いて、ネガティブな思考を追い出す。
 壁に立てかけてある、ロングメイスに目をやる。祖父の形見の品だ。もちろん、旅に持っていく。神官は体力勝負だから、という父の言葉を信じて筋力トレーニングや体力づくりに励んできたお陰で、あの重いメイスも軽々扱えるようになった。きっとレーテを助けてくれるだろう。
 ――私は、死なない。
 いつでも祖父がそばに居るのだから。



 レーテは教会からもらった新品の神官服に身を包み、純白のロザリオを首にぶら下げ、にんまりと笑った。神官の証である、純白のロザリオ。初めて神術学校の門をくぐったときのように、胸が高鳴る。触っては放して、放しては触ってと、気分が落ち着かない。
「レーテ、本当に大丈夫かい? ハンカチとティッシュは持った? あ、着替えとお金もちゃんとある? 途中で落とさないでね。ロザリオと、お義父さん……お祖父ちゃんの武器は大丈夫? 聖水はこぼれてない? それから……」
「んもう、父さん! 私もう十七よ。子供じゃないんだから」
 いよいよ出発というときになって、しかし心配性の父はなかなかレーテを解放しようとしない。過保護なのは今に始まったことではないが、さすがにこの歳でハンカチだのティッシュだのと言われるのはいかがなものか。レーテは軽く頬を膨らませて、
「心配してくれるのは嬉しいけど! 本当に全部持ったから、大丈夫だってば!」
「そうは言ってもね、心配するさ。お前は、僕が今まで大切に大切に悪い虫がつかないようにそりゃもう十分注意して育ててきたんだから」
「そのせいで神術学校で彼氏できなかったんだけど」
 両肩に置かれた父の手を半眼で見つめ、深く溜息をつく。まぁ、この過保護さ以上に自分の容姿に原因がある――それは決して、不細工だというわけではなく――それは理解しているつもりだ。
 友達が少ないとか彼氏が出来ないということだけではない。この姿は生きていく上でこれ以上ない障害となってレーテに纏わりついているのだ。
「もし旅先で変な男に絡まれたり、見当違いな因縁つけられたら、すぐ父さんに連絡するんだよ、いいね? そしたら父さん、すぐにお前のとこまで」
「分かった分かった。ちゃんと連絡するから、もういいでしょ?」
 口を挟むと、父はまだ何か言い足りないような顔をしていたが、とりあえずこの話題を終わらせた。そしておもむろに真剣な表情を作ると、
「そうだね、冗談はこのくらいにして」
「冗談だったのか!」
「九割は本気だけどね」
 ――もういいや。
 突っ込みは諦め、おとなしく父の言葉を待つ。
「ずっと言わなきゃいけないと思っていたことがあるんだ。なかなかタイミングが掴めなかったんだけど……」
「なに、父さん?」
 いつになく歯切れの悪い父に、首を傾げる。しばし逡巡した後、意を決したように口を開いた。
「実は、母さん……死んだっていうのは嘘なんだ」
「……え?」
 レーテは固まった。目を見開いて、父を見つめる。言葉も出なかった。あまりの驚きに思考が停止する。こんなおとぎ話のような展開など誰が予想できただろうか。
「母さん、生きて、るの?」
 やっと紡いだ言葉は、自分でもはっきり分かるほど震えていた。父はこくりと頷く。「居場所は分からないけど」と付け足して。
 あまりの衝撃に足腰から力が抜けそうになる。
 母の顔なんて覚えてない。一緒に過ごしたという感覚もない。自分に母が居たというその事実に違和感を覚えるほど、レーテにとって「母親」というのは遠い存在だった。
 でもふとした瞬間、記憶の奥深くからおぼろげに浮かび上がってくる優しい優しい子守唄。レーテにとってその歌声が、母の全てだった。
 合否通知の封筒を前にしたときとは違った緊張感が、レーテの心を満たしていく。
 母が、生きている。
 記憶の中で風化していくだけだった歌声が、現実に存在している。
「母さんはなんで……出て行ったの?」
 反射的に、疑問が口をついて出た。父が苦しそうに顔を歪める。
「それは……」
 口ごもる父に、レーテは優しく微笑む。そう簡単に言えることなら、もっと早くに言ってくれていただろう。
「言いづらいなら」
 別に言わなくていいよ、と続けようとした瞬間。
「気づいたら居なかったんだ」
 ――うわ。そう来るか。
 いろんな意味で驚き固まるレーテに、父は「ごめんね不甲斐なくて」と肩を落とす。
「いやまぁ、うん。大丈夫よ、さっきまでのシリアス返せこのヤローとか思ってないから」
 つい口が滑って本音が出た気がするが、レーテは気にせず父の肩をぽむぽむと叩いて慰めてやる。あまりにも小さく感じられる父に、努めて明るい声で約束した。
「巡礼の旅で、絶対に母さんを見つけ出してあげるわ! そうしたら、腕引っ張ってでも連れて帰ってきてあげるからね。期待して待ってて」
「楽しみにしてるよ」
 父は力なく笑う。「任せて」とレーテは親指を立ててみせた。こんなにいい父――過保護だけど――を捨てるなんて、いったいどんな理由があったのか。
「――それじゃあ、そろそろ出発するわ」
「引き止めて悪かったね、レーテ。気をつけて。バールに着いたら必ず連絡するんだよ」
 必ずの部分にやたらと力を込めて言うその顔は、もういつもの過保護パパだった。レーテは苦笑すると、父の頬にキスをして玄関を飛び出す。
 旅路を祝福する晴れやかな空。春らしい暖かな風がそこらじゅうの花と高い位置で結んだ銀髪を優しく揺らす。
 最後にと振り向けば、玄関に父の姿。レーテは軽く手を振って――くるっと背を向けて駆け出した。もう振り返らない。
 生まれ故郷ラクルとの、しばしの別れ。
 期待と不安で満たされた心を感じながら、レーテはこぶしを掲げる。
「レーテ・レーゼ、行っきまーす!」
 春の日差しはさんさんと大地に降り注ぎ、道を照らす。