第四章:再会、そして 第一節

 数日間の休息のお陰で、体は随分と癒えてきた。
 闇は時雨の周囲を静かに漂う。
 気を失ったまま起き上がる気配を見せない人間。なんと脆弱な生き物だろう。少し揺さぶっただけで愚かなほどに動揺し、簡単に心を乱す。お陰で宿主には事欠かない。
 闇を前に隙を見せることは致命的だ。動揺は急所を曝け出すのと同じ行為なのだから。
 闇ゆえに人の心を抉るのか、抉るからこそ闇たりえるのか……それは自分自身にも分からない。
 確かなものは、血を欲する、この激情。いくらこの暗黒を空気に溶け込ませようと、決して薄まることはない欲求。
 ――そろそろ目覚めの時間だ。
 招かれざる客が来たようだ。戯れに、少し相手をしてやろうではないか。
 ずるり、と闇は自らを人間へと押し込めていく。入り込むたびに体が痙攣し、びくりと無様に跳ね、口からは意味を成さない音が漏れた。蛙でももっと綺麗に鳴く。
 極限まで見開かれた瞳に光はなく、焦点は定まっていない。闇は――非常に珍しいことだが――この漆黒の瞳を気に入っていた。奥底に絶望を隠したこの双眸が、闇を惹きつける。
 暗黒とはつまり、絶望そのものだ。希望など不要。輝く瞳など不愉快極まりない。
 全ての闇が、脆弱な体へ入り込む。張り詰めた四肢の血管が浮き上がり、今にも切れそうだ。
「あが、あぐぁああ……」
 血反吐を吐きそうな唸り声は、小さな断末魔にも似ている。人間秋永時雨の最後と思えばそれもあながち間違いではないが。
 最後の一握りの闇まで余すところなく入り込み、『秋永時雨』は静かに焦点をあわせる。時雨が浮かべるはずのない、残虐な笑みを浮かべて、虚空を見据えている。
 入り込んできた愚か者をどう嬲ってやろうか、考えるだけで背筋に快感が走った。
「……さて、行くか」
 動悸が治まり、呼吸も安定してきた。緩慢な動きで刀を抜き放つ。血で薄汚れた刀身。
「ふん――」
 闇が無造作に一振りすると、血は弾け飛び煌きを取り戻した。
 やはり武器は、美しくなくては。他者の命を奪うに足るだけの輝きがなければ、血を浴びた時の高揚も激減するというものだ。
 美しいものが汚される瞬間。その刹那が最も美しく、歓喜を呼び起こす。綺麗なものを傷つけ、それが歪んでいく様を見るのは、なんとも心地良い。
 ――舌なめずりする顔に、時雨の面影は見えない。完全に別の人間となってしまったかのようだった。
 歩を進める。愚か者を嬲るために、絶望を啜るために。
 狂都市へ来たときに殺し損ねた魔物の気配がそこかしこで震え始める。全て殺して回っても良いが、今この刀を血で汚すのは、何となく興が殺がれるように思えた。
 真っ赤な血だ。人の美しい鮮血を浴びずに、いかなる高揚も得られない。
 絶望そのものとなった時雨は、静かに笑みを零す。
「うわ、本当に居た、秋永時雨だ!」
 廃墟の入口。
 数人の冒険者がこちらを見据えて武器を構えている。ここに来て『秋永時雨』と対峙したことを後悔するだろう。
「そして光栄に思うが良い。私が直々に相手をしてやることを」
 刀を突き出す。
 複数の剣士が駆け出し、魔術師が呪文の詠唱を始める――


 時の中に忘れられ、生命すら錆付かせてしまったかのような廃墟。静まり返った空気に、砂利を踏む音がやけに大きく響く。
「なに、あれ」
 背負ったリュックの重みも一瞬で吹き飛んだ。
 ルィンたちがサーイン跡に到着したとき、まず真っ先に目に付いたのは「赤」だった。灰色の古城には似つかわしくない鮮やかな色彩。
「う、わぁ……」唸り、ベンナードが口元を押さえた。ルィンはそっと背中を撫でてやる。ベニーより慣れているとは言えど、ルィンも込み上げてくるものがある。しかし弟の前で弱気な姿は見せられなかった。
 さすってやりながらも、視線はまっすぐ前を見据え。
 震える唇は恐怖か怒りか。
「酷いわね、これは」
 リュミエが杖を握り締める。「最初に着いた連中は全滅だろうな、この様子じゃ」ノクスも応え、剣を抜く。
 廃墟には――数体の死体が転がっていた。まだそれほど日は経っていないのか、生々しい。
 冒険者だったのだろう――恐らく剣士と魔術師――砕かれた武器が散乱している。断言を憚るのは死体がどれも――原型がなくなるほどに切り刻まれていたから。
「今日もまたネズミが紛れ込んだようだな」
 普段より若干、低い声。
 惨劇の中心。
 ただ一人、血に濡れながらも立っている人物。その笑みはどこまでも昏い。
「時雨――!」
「ルィン、近づいちゃダメよ!」
 相方の姿に思わず駆け出そうとするルィンを制したのは、リュミエ。表情は硬く、ルィンの肩を掴む指はかすかに震えている。
「あれが秋永時雨かよ。まるで別人だな」
 ノクスが吐き捨てた。
 彼女から吐き出される圧倒的な「負」の力。人間とは相容れない性質故に、本能が拒否反応を示している。逃げろ、さもなくば死ぬ――と。
 けれど覚悟、決心の前には、本能などねじ伏せられる。
「よくも時雨に……こんなことさせたね!」
 ――横暴で口が悪くてすぐ手が出る時雨だけど……不要な殺しをするような人間じゃない!
 闇に対する恐怖はあった。しかしそれも、時雨を見た途端に怒りへと変わる。
「ルィン、やっと再会出来たと言うのに……何を怒っているの? 私、寂しいわ」
 声色と口調を変えて、「時雨」が眉を下げる。
「全っ然似てないよ! 気持ち悪いから止めて!」
 時雨は感情が負の方向へ傾くと、決まってルィンにやつ当たるのだ。今みたいに「本当に悲しそうな顔」なんて絶対にしない。
「姉さん、結構ハッキリ言うんだね……」
 青い顔のベンナードが呟いた。
「ふふ、似てるも何も私は時雨よ?」
 悲しそうな表情を引っ込めて、闇がからかうように笑い出す。完全にこの場を楽しんでいるように見えた。
「ルィン……今度こそ殺してあげる」
 闇が刀を構えた。間合いには入っていないはずだが、それでも汗が吹き出る。圧倒的な威圧感に心臓が押しつぶされそうだ。
「そうはさせねーぜ」
 前に出るのはノクス。「油断しないでね」リュミエが珍しく心配そうな声を上げた。それに軽く手を挙げて応え、剣を抜き放ったノクスは少しずつ間合いを詰めていく。
「力の限り援護します。どうか隙を作ってください」
 呟いて、ベニーが杖を構えた。
『時雨』は余裕の表情を崩さない。自分の絶対的な力を確信しているのか、こちらを不安にさせるような顔だ。
「人間――ノクスか。この女の記憶にあるぞ。先日の連中よりは楽しませてくれそうだな」
「お褒めにあずかり光栄です、ね!」
 言い終わらないうちに、ノクスが駆け出す。既に抜き放たれた剣が煌いた。同時にリュミエが魔杖をかざし、精霊魔術を唱え始める。
「……我欲するは包みしかいな――息吹壁(いぶき)!」
 周囲の風がざわめき、ゆったりとノクスの周囲を巡る。
 見えざる結界。風の補助魔術だ。
 直撃を受けても致命傷は避けられる、程度の防御力。しかし途切れさせずにいれば大きな助けとなるだろう。
「ほう」
 珍しい玩具でも見たかのような反応。
 続いてベニーの術が完成した。
「……我願うは継承の御魂――癒幻(ゆうげん)」
 ふうわりとした淡い光がベニーから放たれ、ノクスへと向かっていく。
 一時的に自己治癒力を高める奇跡。難しい技ではないが、ルィンには使えない。
「息吹壁と併せればそれなりの効果は期待できると思うよ」
 小さく言ったベニーの足はまだかすかに震えている。気丈に振舞うその姿に愛しさを覚えた。
「喰らえっ!」
 ノクスが肉薄する。振り上げられた剣。時雨は避けない。無造作に刀を持ち上げると、ノクスの剣を受け止めた。金属同士がぶつかる耳障りな音が届く。
 驚いたことに――時雨は片手で剣を受けていた。ルィンの目から見ても、軽い攻撃ではなかったのだが……闇が身体能力を限界まで引き出しているのかもしれない。
 やはり勝負は短期戦。
「青いな、人間。――ねぇ、それで私に勝てると思ってるの?」
 うふふ、と時雨の声真似をする闇。生理的な嫌悪感が肌を撫でる。ノクスも同じだったようで、身を引いて間合いを取っていた。そして再び斬りかかる。リュミエの術も重なり、闇が飛び退く。一気に畳みかけようとしたのか、ノクスが追い縋った。
「そんな怖い顔しないでほしいわね。もっと楽しみましょう? 血を浴びるのは気持ちが良いわよ」
 時雨の反撃。軽く――余りにも軽く一閃された刀がノクスをとらえる。
 たったそれだけで、ノクスの胸が裂け、血が溢れ出た。ぐら、と崩れかける体。しかし途中で踏ん張り直し「やるじゃねーか。でも、俺としては本物の時雨と戦ってみたいね」軽口を叩くノクスの声にはまだ少しだけ余裕が感じられる。
「癒幻か。なかなかの精度だな」
 闇がベンナードを見た。たちまち萎縮する弟。ルィンたちからは見えないが、恐らくノクスの傷口が既に塞がり始めているのだろう。そこに再び「我欲するは大空の支配――風華!」リュミエの術が炸裂。爆風が闇を中心に起こり、吹き飛ばされる。
「少々厄介だが、それくらいのハンデは許してやろう」
 しかし軽やかな着地。そして大仰に頷く。負けるとは微塵も思っていない強者の声色だった。
 この場に居て――何も出来ない自分が悔しい。唇を噛み締める。魔術師として、「封印の器」という大事な役割があることはちゃんと分かっている。
 けれど、そのための隙を皆が作ってくれている間、自分はただ見ていることしか出来ないのか。出来ることなら自分の手でそのチャンスを掴みたい。
「ルィン。あなたは封印のことだけを考えているのよ。ベンナード様も魔力を使いすぎないように」
 そんなルィンの考えを察知したかのようなタイミング。
「無能だと思われてなんぼの作戦よ。策があるって思われちゃダメ。我慢しなさい、私だって、今すぐバカ女を足蹴にしたいのよ」
 冗談なのか本気なのか。緊張した面持ちからは判断がつかない。
「はい……」
 それは弁えている。自分に出来ることなど限られていて、むしろほとんど無いといって良いことも理解している。
 ノクスと時雨の打ち合いを眺めていればいるほど、心に出来たもやは大きくなる。