第三章:やるべきこと 第二節

 深夜。一向に部屋から逃げ出せないルィンは、とりあえずバルコニーに出ていた。冷たい風が頬をなで、羽織ったストールをさらおうとする。
「時雨……どこかな」
 闇の気配を辿ろうとするルィン。まだ日は経っていない。ルィンの力ならまだ間に合うはずだ。
 神経を研ぎ澄ます。木々のざわめきさえも感じられないほどに、風さえも止まってしまったかのような、静寂の世界へ自分を誘う。
(時雨、時雨……!)
 かすかな足跡が――闇の残り香が引っかかる。寒気のする気味の悪さが、とある方向へと続いている。
「この方角……狂都市だ……!」
 闇にとっては封印されていた忌まわしい地のはずだが、あそこならしばらく誰にも邪魔されないだろう。体を休めるには丁度良いかもしれない。
 ルィンは即行で部屋に戻り、持ち帰った封印の鎖を弄り倒す。
 おぼろげなランプの光に照らされているのは、精緻な紋様。このひとつひとつが封印の陣を形成していたのかと思うと、余りの精密さにため息が出てくる。
 完璧な神聖魔術。その凹凸をなぞるごとに、適度な高揚感が湧き上がるのを感じる。

 そして――時間だけが過ぎていく。

 この封印をもう一度発現させれば、時雨を助けられるかもしれない。そう思って知識をひっくり返しているのだが、見れば見るほどに、その巧妙さにうっとり……もとい、落胆してしまう。
「そもそも、これって封印の一部なんだよねぇ。全体像が分からないと、使えないか」
 その全体像はといえば、リュミエの手によって粉々になってしまっている。時雨の「英雄譚なみね」という声が聞こえてくるようだ。
「時雨……大丈夫かな」
 鎖を弄る手を休め、虚空を見上げた。薄ぼんやりとした天井が不安を煽るように揺れている。剣は最初から時雨を狙っていたのかもしれない。だからこそノクスの手にあるときは息を潜め、限りなく自身の存在を薄めていたのだろう。時雨が現れなくても、最終的にノクスを乗っ取れば良い。彼には多少の魔力があったが、それでも闇が負けるわけじゃない。
 しかし、時雨は現れた。自分が呼んでしまった。ルィンは自分の迂闊さを呪う。
 別にノクスだったら良かったのに、と思っているわけじゃない。
 ――いや……思っている。どうして時雨があんな目に遭わなくちゃいけないの。剣の封印を解いたのはあの二人なのに。
 心の隅ではずっとそう考えていた。
「嫌なやつ、あたし……」
 膝に顔をうずめた。柔らかな夜着が受け止めたのは、滲んだ涙。
 誰が悪いとか、何故こんなことにとか、責任を追及している場合じゃない。今はどうやったら時雨を助けられるのかを考えなければならないのだ。
 それなのに思考が行き止まりに来ると、責任の所在を求めてしまう自分が嫌だった。
「切り替え切り替え!」
 ぱしん、と頬を叩いて雑念を追い払う。
 時雨は必ず助ける。それで良いんだ。
「よーし、やるぞー!」
 再び鎖とにらめっこ。丹念に調べ、持てる知識の全てと入念にすり合わせていく。
 幸運にも、理論は知っている。この破片から読み取れる範囲でだが、かつて読み漁った魔術書の中にあったものと一致する部分が多くあった。
「あの本、どこにあるかな」
 そろそろと移動して、書棚を探る。
 背表紙に書かれたタイトルだけで中身が分かる程度には、読み込んでいる。
 内容ダブってるの読むと損した気分……というルィンの憂鬱はさておき。
 人差し指が背表紙をなぞっていき、数冊目で止まる。分厚く年季の入ったその本は、神聖魔術と暗黒魔術の関係について記されたものだ。随分と古いもので、王都の図書館でもあるか分からないくらいのシロモノだ。それが何故ルィンの本棚にあるのかと言えば、ひとえに父の地位と努力と好奇心と財力と、ついでに家名のお陰だったりする。
「確か真ん中の辺りに……」
 忙しくページを捲っていく。頼りないランプの明かりがもどかしい。
 光に浮かび上がる文字を懸命に追っていく。複雑怪奇な術式、解説文……どれもだいたい頭に入っている。そしてついに、目的のページに辿り着いた。
 鎖に彫られた紋様。
 それがひとつひとつ、数ページに渡って紹介されていた。視界に入れただけで気が遠くなりそうな文字列。
 しかしルィンの思考は冴え冴えと澄み渡っていた。
(待っててね、時雨。絶対助けるからね)
 時雨が認めてくれた知識、今活かさずにどこで使うというのか。初歩の神聖魔術すら出来ない人間が上級の封印に挑戦するなど英雄譚なみの現実性と笑われるかもしれないが――ならば英雄譚を紡いでやろうではないか!
 ルィンはひとつひとつ丁寧に、術式と封印の効果を照らし合わせていった。研ぎ澄まされた集中力は、これ以上ないほどの正確さをもって封印式の構造を解読していく。
 そして――
「こんな感じかなぁ……」
 ルィンがぼやいたのは、朝日が昇り始めた頃だった。封印に使われている術式の役割を丁寧に紐解き続け、封印式の全体像がおぼろげながらも浮かび上がってきた。
 夜通し本との睨み合いを続けたルィンに、けれど疲れはほとんどなかった。膨大なメモ紙に埋もれながら、言いようのない高揚感に包まれている。
 これを実行できるかどうかは別の問題だが、解読が進んでいるという手ごたえがルィンのやる気を支えていた。
「とりあえず出来たとこだけ再構築してみようかな」
 ぶつぶつと独り言を呟きながら、メモの山をひっくり返し始める。
 ルィンの知識をもってすれば、封印式の記述自体はそれ程難しくはない。眠る魔力をしっかりと制御できれば、歴史に名を残す魔術師となっていたかもしれない。
「――ルーレンシアお嬢様、起きていらっしゃいますか?」
「寝てまーす」
 エテスの声だ。
 認識はすれど、今は一刻も早く式を完成させたかった。適当に返す。「そんな自然に嘘つかないで下さい」と苦笑が届いた。
「ご用がありましたら申し付け下さいね。私はここに居ますから」
「はーい。エテス、ありがと」
 昔から世話をしてくれてるだけあって、ルィンのことをよく分かっている。エテスは、こんな時はルィンが作業に没頭しているときで、なおかつ何を言っても止めないのを知っているのだ。
 恐らくエテスは察している。ルィンが時雨を助ける手立てを探していることを。そして、方法が見つかったら相方を助けに行こうとしていることを。
 ルィンの操るペン先は物凄いスピードで式を構築していく。
 これが完成し、発現させる方法が分かればすぐにでも飛び出すつもりだった。早くしなければ魔力を追跡することも難しくなってしまう。
 集中力が細く鋭くなっていくのを感じる。


 ベンナードは珍しく早足で自宅の廊下を歩いていた。抱えている本の重さなど微塵も感じていないような足取りだ。
 昨日の惨劇が嘘だったかのような、修繕された部屋を通り過ぎて、向かうは姉ルーレンシアの自室だ。
「エテス。姉さんは起きて……るよね?」
 もう昼過ぎだ。ベンナードの問いに、しかしエテスは戸惑い気味に答えてきた。
「はぁ、何かしていらっしゃるようで……まだ一度も出てこないんです」
「そうか」
 眉をひそめる。姉が作業に没頭するとそれ以外のことに無頓着になるのは昔からだ。てこでも動かなくなる。しかし病み上がりの体で食事も取らずに、というのは健康上宜しくないだろう。
「僕から言ってくるよ」
「宜しくお願い致します」
 エテスの顔は娘を心配する母のそれだ。
 ベンナードは「姉さん? 入るよ」断りを入れ、扉を開ける。鍵が閉まっているのかと思えば、あっさりと開けた。視界に飛び込んできたのは――
「姉さん……何やってんの?」
 呆れた息が出てきた。後ろで覗き込んでいたエテスも、「お嬢様……!」と額に手を当てている。
 雑然とちりばめられた大量の紙。ルーレンシアとしては何かしらの法則に従って整頓しているのかもしれないが……ただの文字の海にしか見えなかった。
 一歩踏み込む。ルーレンシアは振り向かない。ただ一心不乱に――狂気染みた光さえ湛えて――何かを書き綴っている。
 これだけ書いておきながら、まだ書き続けるのかと戦慄さえ覚えてしまう。目の下に添えられた隈が、長時間に及ぶ作業だったことを物語っていた。
「姉さん」
 行く手を阻む紙の群れをどうしようか迷った末、結局かきわけて近づくことにした。姉ならまた並び直せるだろう。
「聞いてるの? エテスが心配してるよ」
「出来たー!」
 肩をぐいと掴んだのと、ルーレンシアが叫んだのはほぼ同時だった。そして肩に添えられた感覚に気づいたのか、ばっ、と顔を上げる。
「ベニー? どうしたの、居るなら声くらいかけてよ。びっくりするじゃん」
「かけたよ」
 あまりな言い草に肩を落とす。危うく本までずり落とすところだった。きちんと持ち直す。
「その本なに?」
 目ざとく尋ねてくる。らんらんと輝く瞳は肉食獣にも似ていた。
「あぁ、これは――」
 暗黒魔術に関する本だ。主に古代の封印を紹介している。父に本について聞かれたときは見透かされているのかと内心ひやっとした。
「暗黒魔術の封印について調べてた。姉さん、絶対諦めてないと思ったからさ」
 メモの山に書かれた術式の破片たちを眺めて苦笑する。ベンナードにも理解不能の部分が――というより、大半が理解できない。
 昨晩から姉のために調べていたのだが、正直、あの冒険者を追ってほしくはない。姉が怪我をするのは嫌だし、最悪の事態だって起こりえる。
 けれど、姉が悲しむ姿を見ているのも嫌だった。もし秋永時雨が殺されでもしたら、姉は一生笑顔を見せてはくれない気がする。何も出来なかった自分を一生責め続けるだろう。いくらお前は悪くないと言われても――決して聞く耳持たず。
「さすがベニー! でも……どうして?」
「その方が良いって、僕が思ったからだよ」
 それならば、とベンナードは思う。
 ――思いっきり姉に協力して、さっさと解決してしまえば良いんだ。そのために一晩考え抜いて覚悟も決めた。
 ヤケになっているわけではない。これが最良だ。秋永時雨が無事に帰ってくることなしに、姉が冒険者から手を引くことはないのだから。
「ふぅん……? そっか」
 深くは問わず、納得したように笑顔を見せた。多くを語らずとも、姉は分かっているのだろう。「それで、何か分かった?」相変わらず切り替えが早い。
 急かす姉に口を開きかけ、しかし言葉を呑んだ。
「その前に……ご飯食べてきなよ。エテスも心配してる」
 扉の陰からこっそり様子を窺っているエテスを示す。
「でもあたしは別に……」
 ベンナードに賛同するかのように、ルーレンシアの腹が景気良く鳴り響いた。