第三章:やるべきこと 第一節

 時の流れにより現代に引き摺り出された古の都。忌々しき封印の地、サーイン。
『秋永時雨』は冒険者の手から逃れ、再びこの地に立っていた。逃れ、と言ってもあの二人もすぐには追ってはこれない程には消耗している。『闇』には逃げているという意識も追われているという感覚もない。
 先の屋敷での戦い……力量では圧倒的に『秋永時雨』が勝っていた。この人間の基本的な力と、自身の闇が合わさった結果だ。
 しかし、その代償は大きい。
 この時雨という人間はまったく魔力を持っていない。非常に支配しやすい人間ではある。しかし同時に、魔力自体に耐性のない体は適度に休ませないと、簡単に壊れてしまう。
 珍しいという程ではないが、だからといって探すのは楽ではない。まして、高い戦闘能力を有しているとなると、なおさら見つけにくいだろう。そういう意味では貴重な存在だ。手放すには惜しい。
「……」
 握ったままの刀が紅をまとって鈍く煌く。
 黄色の着物も鮮血に染まり、凄惨さを主張した。斬り伏せた小娘と、秋永自身の血だ。もう傷は塞がっているが、失われた体力は少なくない。
『秋永時雨』は朽ちた城に入ると、まっすぐに最奥部へと向かう。侵入者の気配に寄ってくる魔物たちは、しかし『秋永時雨』を認めると恐れをなして逃げ惑う。闇の具現たる彼らは敏感に『闇』を感じ取っているのだ。自分たちよりもずっと純粋な害悪を。
『秋永時雨』は無造作に刀を一閃。ぞぶり、と不快な音を立てて魔物の一匹が崩れる。赤紫色の血飛沫があがり、薄汚れた地面を彩っていく。
 ――そう、血だ。血が足りぬ……。
 笑みは陰惨を極め、毒々しい瞳をそなえる。
 猛る攻撃性は衰えを知らず、視界に入るもの全てを血に染め上げた。逃げおおせた奴らは、後でじっくり嬲れば良い。もし『秋永時雨』の体が完全な状態であれば、この城から生命が消えていただろう。
 最奥部へ辿り着くと、『秋永時雨』は四肢を投げ出すように倒れる。うつ伏せになったまま動かず、瞳は虚ろで瞬きすらしない。完全に事切れたかのような、死体のような表情だった。
 その体からずるり、と這い出すものがある。
『闇』そのものだ。時雨の体を乗っ取り、操っていた魔力の塊がずるり、ずるり、と空間に滲み出て行く。質量などないに等しいはずが、確かな重量感を持って散らばっていく。
「う……っ……」
 そのたびに時雨の体が痙攣し、言葉なき声が漏らされる。眉根は寄せられ、痛みに体を抱いている。
 そして――
「あ、ぅ……ここ、は……」
 ついに秋永時雨が、目を覚ました。
 虚ろな闇は周囲を漂うばかり。


「……狂、都市?」
 時雨は上体を起こしたまま周囲を見回す。時間に忘れ去られた白亜の部屋。
 紛れもなく、あの派手魔術師に敗北を喫したサーインの城だ。何故こんな場所に居るのか――確かルィンの後を追って、ディーズィルの屋敷に殴りこみに行ったはずでは?
「殴りこんで、それで……」
 立ち上がろうとして「――っ!」声も発せられずに崩れ落ちる。
 体全体が悲鳴を上げている。筋肉痛なんてものではなくて、もっと根本的な――生命が危険を知らせているような壮絶な痛みだった。
 息も出来ぬほどに悶え、床に体を投げる。抱いた体を見下ろすと、そこには血がべったりとはりついている。赤紫の陰に隠れているのは、見慣れた錆色。
 途端、記憶が蘇る。
 まとわりつく闇。心臓を鷲掴みにされたような怖気。自分を呼ぶ悲痛な声。一閃された刀。切っ先の向こうには。
「ルィン……?」
 呆然と呟かれた言葉は静かな空気に溶けていく。この血はルィンのものだ。痛みも忘れて刀を見る。こびりついた血はまだ新しくて、それ故に生々しい。
 ぎり、と奥歯を噛んだ。
 ――何故怒る必要がある?
「……っ誰?」
 どこからともなく聞こえてくる声。痛む体を無理やり起こして――さすがに立てはせず、座り込んだままだが――天井を仰いだ。
 誰と反射的に問うたが、答えは分かりきっている。「あれ」だ。凍りつくような寒さを内包し、人様の体に土足で踏み込んできた、あの闇だ。
 案の定、蠢く「もの」があった。あれが何なのか、明確な答えは持っていないが――ルィンの言っていた「危険」の正体なのは間違いなかったし、それだけ分かっていれば時雨には十分だった。
「なに、よ。じゃあ、笑え、っての?」
 相手に付け入る隙を与えてはいけない。それなのに、隠し切れない疲労感、苦痛が荒い息となって表れる。腹に力を入れるだけでも相当に堪える。
 いや、そもそもやせ我慢など無意味な相手かもしれない。
 ――鮮血を撒き散らし、生き血を啜り、返り血を浴び、全てを赤に染め……それ以上の喜びがどこにある? 歓喜せよ、人間。怒りなど感じる暇すらなく、歓喜に打ち震えるが良い。
 声のトーンは低い。一定の抑揚で語られる狂気が、かえって聞く者の神経に障る。
「勝手に……やってなさい」
 対する時雨の声には怒気が込められている。
「とにかく、私は、帰る。邪魔はさせない」
 刀を支えに何とか立ち上がる。一体どんな使われ方をしたのか、足が震えて歩き出すことさえままならない。「く……」どうしても動かない足にもどかしさと苛立ちが募る。
 ――帰る場所などないだろう?
 せせら笑うような声。
 ――友を傷つけ、頼れる仲間も居らず、今や追われる身……そんなお前に価値はあるのか?
 価値。そんなもの、とうの昔から失われている。今更そんな幻想を追い求めるほど愚かではない。
『母さん、なんで……!』
 幼い頃、結局返ってこなかった答え。自分は無価値だと断じられたあの日。
 遠ざかっていく故郷に、波に揺れる船体。
(どうして今さらそんなこと、思い出したのかしら……)
 故郷の影が完全に消えたかと思えば、次は相方の顔が浮かんできた。
 呆然とした瞳が脳裏に焼きついて、何度も執拗に責め立ててくる。子犬のようについて回ってきて、笑いかけてくるあの瞳が、驚愕と疑問に染まっている。
 しぐ、れ。
 途絶えた声が怖い。
 ――友はお前を許さないだろう、殺しに来るかもしれぬ。ならば我に支配され、ただ快楽を享受するのがお前の幸せだ。
 不愉快な声は呪文のように反響し、時雨の頭に入り込んでくる。その不協和音に顔をしかめた。しかし、今の口ぶりだとルィンは生きているようだ。あの子を殺してはいないのだと、ほっと胸を撫で下ろす。
「はっ……強すぎる、ってのも、罪ね。こんなのにまで、狙われ、るんだから」
 しょせんは強がりでしかない言葉は、誰が聞いても明らかなほど震えていた。疲労か、恐怖か、怒りか――負の感情を擁した時雨はまっすぐ闇を見上げる。
 ――考えるのを止めろ。我に身を委ねよ。
「お断りよ!」
 壊れたバネ仕掛けの人形のように、床を蹴る。前のめりになりながらも、体に鞭打って走ろうとするが――
「っく……あ……」
 闇は慌てることなく、むしろ優雅とさえ言える動きで時雨を押さえつける。どこにそんな重みがあるのか、息苦しくさえある。
「はな、せ!」
 仰向けに転がされ、指一本すら動かせない。重罪の囚人でさえもっと自由だろう。
 骨の軋む音がやけに大きく響いた。
 ――無駄だ。
 時雨を押さえつける意思を持った闇は、急速にうねり、弾け、ひとつの形を作り上げていく。それは徐々に輪郭を確かにし、見慣れた姿へと変貌していく。
 たちの悪い演出だ……時雨は闇を睨みつけた。
『ねぇ、時雨』
 ルィン・ノージャ。一切の色彩を持たない相方が、時雨の体に馬乗りになっている。浮かべる笑みも声もルィンそのもので、だからこそ生理的な嫌悪感が時雨の背筋を撫で回す。
 これは生きる者とは絶対に相容れない存在だ。それが人間を気取っている……さも命があるように振舞っている。なんとおぞましいことだろう。
『あたしね、今すっごく気分良いの。やぁーっと時雨と別れられて、本当に嬉しい』
 ルィンの形をした闇は、いっそう笑みを深める。
『すぐに別れるつもりだったのに、気づいたらずっと一緒だし……鬱陶しかったなぁ』
「なによ、知ったような口利いて……」
 反論に力はない。
 これはルィンではない。形だけを真似た偽モノだ。それは理解している。しているが――今の言葉を否定しきれない自分が居る。
 ルィンがそんな風に思っているはずがない。思っていないはずだ。
『いつもいつも偉そうにして、あたしがどれだけ我慢してたか知ってる?』
 思っていない、思っていないだろう……少しは嫌がっていた?
 一度疑惑の渦にはまった思考は、どんどん悪い方へと沈んでいく。闇に中てられ続けた精神は知らず知らずのうちに蝕まれていき、正常な判断力が掻き乱される。
 思っていたのかもしれない、気づかなかっただけ……?
『ホント、馬鹿じゃないの?』
 嘲笑。
 耳元で囁かれた言葉はそのまま時雨の脳へと滑り込み、残された意識を食い尽くしていく。
「私、は」
 再び闇が、視界一杯に広がる。