第二章:その行方は 第五節

「――違う。あたしは自分の都合で、意思で、勝手に、出て行ったんだ」
 対するルィンの声は硬い。
 まだ父は健在だが、それでも次の代を考え始めるのに早い歳ではない。周囲の関心もまた、誰が――どちらがディーズィル家を継ぐのかに向いていた。
 普通ならば男女は関係なく長子であるルーレンシアが次期当主として収まるはずなのだが――実力が伴わない。
 ディーズィル家始まって以来の厄介者。
 陰で囁かれた言葉を何度か耳にしたことがある。
「姉さんは魔力が低いんじゃないよ。大きすぎる魔力を持て余してるだけで、実力がないなんて絶対に有り得ない」
 それはそれで問題だろう。ルィンは苦笑した。
 父も弟も使用人たちも、ルィンを慰め、心無い者たちから庇い、明るく励ましてくれる。けれどルィンは自分の実力を弁えているつもりだ。励ましは純粋に嬉しいが、不要だと思っている部分も少なからずある。
 対してベンナードはと言えば、神聖魔術だけでなく精霊魔術をも難なく使いこなし、穏やかな気性で周囲からの評判も良い。
 次期当主にはベンナードを、と推す声は無遠慮にルィンの耳にも届いた。優しい弟は首を振るばかりだったが、彼が当主となった方がディーズィル家にとっても幸せだろう。
 自分さえ居なければ。
 そう思ったことがないと言えば、それは嘘になる。むしろそう思っていた時期の方が圧倒的に長い。
 しかし弟が思ってるように、それだけが理由で出て行ったわけではないのもまた事実だ。屋敷にやってくる冒険者の土産話を聞くのが何よりの楽しみだった。
 話を聞くたび、冒険者に対する単純な憧れが育っていった。誰にも縛られず自由気ままに生きる生活をしてみたかった。
 そう、これはルィンのワガママなのだ。
 だから。
「ベニーが思ってるほど、あたしは他人を思いやれる人間じゃない。自分勝手でワガママなどうしようもない姉なんだよ」
 ごめんね、と囁いた声が弟に届いたかは分からない。小刻みに首を振って必死にルィンの言葉を否定している姿は何とも健気で――痛々しく。
「違う。違うよ。姉さんは他人に優しすぎて、自分に無関心すぎるんだ。どうしてあんな酷いことを言われて平気な顔してたの? どうして苦笑ひとつで済ませられるの? 本当は――」
「それは、みんなが言ってることは事実だから」
 ベンナードの言葉を遮る。
 答えに、弟が苛立つのが分かった。聞き分けのない子どもに腹を立て始めた親のように瞳が光る。
「姉さんは本当は凄いんだ! 姉さん以上の魔力感知能力を持った人間を僕は知らない。姉さん以上の知識を持った人間を僕は知らない!」
 ルーレンシア・ディーズィルには才能がない。それは周囲の一般的な、それもあながち間違っていない認識だ。
 弟の言うように魔力を持て余しているのだとしても――やはりそれは、ルーレンシアの致命的な欠陥なのだ。自身の魔力を操れない魔術師や司祭など何の役に立つ?
 ルーレンシアには才能がなく、司祭としてはやっていけない。ディーズィルを引っ張っていく力はない。
 自虐でもなんでもない、厳然たる事実だ。
「お父様やベニーがそう言ってくれるから、あたしは大丈夫。なに言われても平気だよ」
 一人でも認めてくれる人が居れば。
 けれど――
「僕が嫌なんだ!」
 弟の拒否はどこまでも簡潔で、悲痛に覆われている。
「姉さんは、本当は凄い力を持ってる。そんな低い位置に留まってていい人間じゃないんだよ」
 これは単なる慰めではない。弟は本気の眼差しをしている。
「それが分からない周囲の発言を聞くのはもう、たくさんだ」
 語尾が揺れていた。
「ベニー……」
 ルィンには痛いほど彼の気持ちが分かった。ここにきて、初めて。
 なぜならこれは――ルィンが時雨へと向けた感情と同じだから。
 誰よりも強く、気高く。
 誰にも馬鹿にされず、凛々しく。
 それがルィンの抱く秋永時雨のイメージだ。
「ベニー……ベンナード、ごめん。ごめんね」
 笑顔が他者を傷つけていたなど、考えたこともなかった。
 弟の背中を抱いてやる。子どもの頃のように。
 いくら大人びても弟は弟。ルィンの体に縋って、体を震わせていた。高ぶった感情をどうしていいのか分からない――そんな風に見えた。
 弟のルーレンシア・ディーズィル像は、ルィンの秋永時雨像と同じだ。
 何者にも侵されない、強く優しい人物。
 その理想像は揺るぎないものだが、汚されることを極端に嫌う。
(あたし達って似たもの同士かも)
 こっそりと苦笑を漏らした。



「姉さん……とにかく、まだ休んでて」
 弟はようやく落ち着きを取り戻したようで、ルィンの体からすっと離れた。
 赤く腫らした目が、有無を言わせぬ空気を纏っている。「でも……時雨が」こうしている間にも時雨が大変な状態にあると思うと、素直に頷けない。
「まだ本調子じゃないんだから、ね?」
「あたしは時雨を助けに」
 それでもなおルィンが渋っていると、
「へ、ん、じ、は?」
 目が据わっている。口は持ち上がっているだけで笑ってない。
「……はい、分かりました」
「よろしい」
 満足げな笑顔。
 ルィンは大人しく布団を被った。体力が戻っていないのは事実。今すぐにでも家を飛び出したいが……こんな状態では、時雨を助けるどころか返り討ちにあって終わりのような気もする。
 ベンナードの言うとおり、回復に専念するのが正しい選択だろう。
(まー、後でタイミング見計らって抜け出せばいいかな。前みたいにカーテンで……)
「あと部屋の前には人を控えさせておくから何か用があったら彼らに。窓の下にも一応何人か警備の人呼んでおくよ。安心してね」
 この言葉によって、ルィンの計画はあっさりと却下された。「あ、ありがと……」これは絶対にルィンが抜け出さないようにとの考えだ。
 布団の下で頬を引きつらせていると、天使のような笑みが返ってきた。
「いえいえ、姉さんが安心して眠れるように配慮するのも弟の務めですから」
 ――安心して眠れるのはベニーの方じゃ……。
 突っ込みたい衝動をこらえて、ルィンはただただ大人しくしていた。


「ルーレンシアはよく眠っているようだな」
 暗がりの中で浮かび上がる娘の輪郭は、ゆっくりと上下している。
 ディーズィル家当主、フスーカはそっと扉を閉めた。控えているエテスが「相当お疲れなのでしょう」と労わりの表情を見せる。
「あれほどの怪我だ。当然だろうな」
 ひょっとしたらあの黒髪の冒険者を追って出て行ったのではないかと心配していたが、杞憂に終わったようだ。
 エテスにルーレンシアのことを頼むと、フスーカは部屋を去る。ひどい状態だった客間はだいぶ片付いてきて、あとは調度品を整えるだけだ。元通りとまではいかないが、それなりに使えるようになるだろう。
『時雨ぇ!』
 そう叫んでいた娘の声が頭にこびりついて離れない。ホールで反響する音のように無秩序に飛び回り、跳ね返って、着地する。彼女が居なくなって――ルーレンシアの心に暗い影が落とされたのは明らかだ。
 しかし、あの時娘の体を離さなかったのは正解だと言い切れる。あの闇に娘を近づけられるわけがなかった。
 秋永時雨は、斡旋所の冒険者の反応を見る限りかなり有名な冒険者のようだが……評判はあまり――いや、かなり良くなかった。金にうるさい。平気で他者を蹴落とす。冷徹な言動。類まれなる強さ以外に認められるものはない。
 ベンナードに聞く限り、助けに行きたがっているということだが……あんな傍若無人な女のために娘を危険に晒す気は毛頭ない――のだが。
『時雨ぇ!』
 娘の叫びがこだまする。あれほど悲痛な声を聞いたのは――妻が亡くなったとき以来か。
『おかあさま、おかあさまぁ!』
 亡骸に縋って懸命に母を呼ぶ姿が、今でも鮮明に思い出される。あの子は妻によく懐いていた。
 あの冒険者に妻の面影はない。少なくとも外見上は似ても似つかない。闇が入り込む前だって、あのふてぶてしい態度に平気で他人を傷つける感覚。
 ルーレンシアが彼女を慕う要素がまるで分からなかった。いったいどこに何を見出しているのか。
「姉さんはちゃんと寝てた?」
 向かいからベンナードが現れた。手には数冊の書物が抱えられている。
「ああ。エテスについてもらっているから心配はないだろう」
 あの体では強行突破など考えないだろう、と思う。昔はもう少しおしとやかな子だったはずだが、いつの間にあんなお転婆娘になったのか。
「……姉さんさ、やっぱ僕に気を遣ってるとこがあったみたい。お父様からもまた言ってあげてよ」
「そうだな」
 フスーカは大きな息に言葉を乗せて吐きだす。
 ルーレンシアの失踪に関してはいろいろな憶測が飛び交ったが、中でも「自身の才能のなさを認めて」「弟に譲るつもりで」というのが最も多かった。
「その本は?」
「ん。ちょっと神学校で課題出ちゃって。こんな大変な状態でも課題は待ってくれないからさ」
 去っていく背中を見つめながら、フスーカはため息をつく。学校に通っていた頃のルーレンシアも熱心に魔術書を読み耽っていたのを思い出した。今になって考えてみれば、あれは劣等感を少しでも埋めようとしていたのかもしれない。
 ルーレンシアの魔力は高い。それは親の欲目でもなんでもなく、事実だ。
 しかしルーレンシアには、致命的なまでにコントロール力がない。ともすれば魔力の絶対値よりも大切な制御能力――それが他者よりも劣っているのだ。
 本来ならば訓練によって身につけられるのだが、幼い頃から周囲の中傷に晒されていたルーレンシアの心には「自信」が育たなかった。精神力に左右される魔術はその影響を受け、なかなか能力が伸びない。
 そのうちにルーレンシアが家を出てしまい――
「帰ってきたと思ったら、あれだしな」
 苦労は絶えそうにない。