第一章:狂える都の跡 第一節

「時雨、右行ったよ、右!」
 ルィンは長い黒髪をなびかせて走る相方――秋永時雨に叫ぶ。丈の短い着物(時雨の故郷の伝統衣装らしい)から覗く足には、草で切ったらしい擦り傷がたくさんある。
「うるっさいわよルィン、分かってる!」
 黒曜石の瞳に思いっきり睨まれた。最大級に苛立った声で返されて、ルィンはビクつく。
 畑を荒らすという魔物の捕獲を請け負ったのだが、これがなかなかすばしっこくって捕まえるのに苦労している。
 しかも生息地が林。草原とかだだっ広い場所ならまだ良かったのだが、障害物が多すぎて思うように追えなかった。
 リスとタヌキを足して二で割ったような小柄な魔物だ。正式名称は知らないが、この辺りでは畑荒らしだとか盗っ人だとか呼ばれているらしい。
 魔物の捕獲なら簡単そうだからこの仕事にしよう、と提案したのは自分なのだ。嫌だ報酬が低い、とごねる時雨を何とか説き伏せて――この有様。生け捕りという条件がかなりの制約になっている。「これならたたっ斬る方が早い」と時雨が呟く気持ちも分からなくはない。
 ちなみにルィンは毛ほどにも役に立っていない。木の根にはつまづくわ、太い幹に突撃するわ、これならさっきみたいに「あっちへ行ったこっちへ行った」と叫んでいる方がマシだ、と判断したのだが……。
「ちょっと、そっち行った!」
 時雨が叫ぶ。はっと我に返ったときにはすでに魔物は眼前に迫っており、
「わぎゃっ!」
 ルィンの顔面を踏み台にした魔物は軽やかに木の枝に逃れ、当の本人は倒れる。魔物はのんきに毛づくろいを始めたりして……明らかにバカにされている。
「相変わらず鈍くさいわね、ったく!」
 ルィンを見下ろして、時雨が舌打ちをする。
「あんた、魔法で何とかできないの? 仮にも魔術師でしょ」
「うーん。できないことはないけど」
 頬をかきながら、大樹の杖を握り締めた。腰にぶら下げて持ち歩ける程度の長さしかないが、大地の精霊の加護を受けた立派な魔力杖だ。
「じゃあ、ちょっとやってみる」
 自信はないけど、という言葉は飲み込んだ。
 魔術師を名乗ってはいるが、冒険者となって一年。実際に魔法を使ったことは数えるくらいしかない。それもこれも時雨が強すぎて使う暇がなかったのだ。正直、自分はいらないんじゃないかと悩んだ日もあった。
「万物に宿りし我らが友・召喚に応じその力を示せ・我欲するは緑の縛め」
 呪文は完成したのだが、何というか手ごたえがない。魔術師にだけ分かる、精霊が流れ行く感覚。
(うーん……ダメかも)
 感覚が掴めないまま、とりあえず、唱えてみる。
「荊織(いばり)!」
 不発。
「荊織!」
 本来ならば、草木が急速に伸びて魔物を捕らえるはずだが、豊かに伸びる植物らは一向にそんな気配を見せない。
 めげずに挑戦するルィンに時雨が一言、
「失敗したんでしょ」
「……はい」
 いつの間にか、魔物の姿はなかった。

 安宿の一室でルィンは魔術書を読み返していた。精霊魔術の簡単な呪文と解説が載っている本で、魔術を齧ったことのある人なら、ちょっと練習すれば扱えるようなものばかりだ。それすらも失敗するルィンは、果たして魔術師を名乗っていて良いのか、自分でも少し疑問に思う部分はある。
「あーあ、次はちゃんとできるようにしとこ……」
 結局仕事は失敗し、報酬もなし。時雨の怒りだけが、ありがたくない戦利品として残された。
 時雨はルィンよりもずっと強く、冒険者としてもそれなりに長い。良くも悪くも誰もが名前を知っているような冒険者だ。ここノーリア大陸の東に位置する小さな島国の出身だと言うが、その国特有の黒髪黒眼も目立つ要因のひとつだろう。対するルィンは金髪碧眼という根っからの大陸人種で、町を探せば似たような外見の娘は腐るほど見つかる。
 魔術書を閉じて、ごろんと床に寝転がった。冷たい木の感触が背中越しに伝わってくる。短い金髪を無造作に投げ出したまま、ルィンは目を閉じた。
『私は次の仕事探してくるから、あんたは宿で待ってなさい』
 そう言って時雨が出て行ったのはちょうど太陽が頂点に来た頃。すでに日は傾き、世界はオレンジ色に染まろうとしている。
 このまま時雨が帰ってこなかったらどうしよう? ふとそんな不安がよぎる。
 時雨とパーティを組んだのはだいたい一年前。初めて行った冒険者の仕事斡旋所で、勢いに任せて「一緒に冒険しませんか」と申し込んだのだ。時雨の評判を事前に聞いていたのなら、そんなことは言えなかっただろう。
 今ではあの時の自分の勇気と無謀さに感謝している。もはや時雨のいない冒険者生活は考えられない。
 でも、だからこそ、不安になる。
 時雨にとって自分は、ルィン・ノージャという人間は、どれほどの価値があるのか、と。魔術も失敗ばかりで、ほかに体術や剣術に優れているわけでもなく、少し金銭感覚が狂ってて(時雨談、自分ではそうは思わないけど)、冒険者としては最底辺だろう。
 時雨は気分屋だ。きっとルィンとパーティを組んでるのだって、一時の気まぐれにすぎないのかもしれない。または、魔術師は少ないから、とりあえず一緒にいるのかもしれない。
「今までずっと一人でやって来た」と時雨は言っていたから、そのうちふらりといなくなってしまう可能性だってある。もともと彼女は独りで行動していたのだから。もしくは別の、もっと強くて時雨に相応しい魔術師が見つかったら……?
「時雨まだかなぁ」
 起き上がって窓に寄った。二階だから少し遠くまで見渡せる。
 見下ろした世界では夕陽を浴びる家が佇み、人々が緩やかに歩いている。その中に、時雨の姿を見つけた。黄色の着物は遠くにいても十分目立つのだ。その足は確かにこの宿へと向いている。
「おーい、時雨ー!」
 嬉しくなったルィンは窓を全開にして、大声で相棒の名前を叫ぶ。しかし遠目でも分かるくらいイヤそうな雰囲気を出されて、そっぽを向かれてしまった。「しっしっ」と犬を追い払うような仕草のおまけつきで。
 それでも構わなかった。たったこれだけのやり取りでも、マイナス思考が修正されていく。
 きっと時雨は、まだ自分といてくれる。